信仰の体験談3
 

 

主を讃美する者でありたい
 
 
(20代男性 学生)
 
 

私は平成2年に生まれ、現在21歳になりました。教会に初めて来たのがいつの頃であったか、よく覚えていません。というのも、両親がクリスチャンだったので、いわゆるクリスチャンホームの中での教育を受けて育ち、教会に来ることは生まれた時からの日課だったからです。一週間というサイクルを意識するよりも以前から、週に一度必ず教会に来ていたはずです。周りには多くのクリスチャンがいました。ともに教会学校に通う仲間がいました。それがあたりまえのことだと感じていたんです。彼らが日本人のスタンダードだと思っていた。しかし残念ながら、教会というのは決して日本社会の縮図ではなかったわけです。小学校、中学校と進学するにつれて様々な人間と価値観とに出会いました。当然その中には教会に通うことを全く理解しようとしない人も大勢いて、社会と接していくなかで次第に私自身自由をもとめるようになりました。あらゆる思想を自分のなかで自由に肯定し、あるいは否定して人格を形成していくべきだと思った。キリスト教という一つのものに縛られている、そのことに対して焦りさえ感じました。一方で教会に来るのを止めてしまうことはできませんでした。それは、周りの人たちに教会を離れることを納得させられるような理由が思いつかなかったからです。家が近かったせいもあって、教会に通えなくなるような状況がどうにも実現しなかったのです。それからは、自由を求める自分を押さえ込んで、己をごまかしながら教会に来る日々が続きました。そのころの私は、教会に繋がっていながら教会につまずいていたと言えるでしょう。そのまま洗礼を受けることに対して大きな抵抗がありました。そんな私を変えたのは父の言葉でした。クリスチャンの父は私に、「一番大切なことを、いつも最優先しろ」といいました。ただそれだけのことで、なんのことか良く分からない。俺にとって「一番大切なこと」って一体なんだろう。勉強もしたい。部活も頑張りたい。しかしどちらも「一番大切なこと」にするのは惜しい。両親の仕事を見ていて気づかされたのは、この人たちにとって「一番大切なこと」は、まさにイエス・キリストの救いだということでした。そのとき、マタイ6:33の「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはみな与えられます。」という御言葉に本当の意味で出会い、自分の思い煩っていたことが本当に小さなことに思えて、素直に神様を受け入れる、ただそれだけでいいのだと知って、2003年のイースターに受洗しました。思えば教会につまずいたあの時期に、教会を離れることなくここに繋がってこられたこと、普段は聞く耳を持たなかった私が父の言葉に耳を傾けられたこと、必要な御言葉に出会えたこと、それらのすべてが決して偶然ではなく神様のみこころの通りに起こった結果、今の私があります。本当にこの奇跡に感謝しています。洗礼を受けてからの私の人生は確かに変えられました。どんなについてないと思えるようなことが起こっても、ありのままの世界を感謝することができる。どんな困難の中にあっても、それを神様が私に課した試練として受け止め、必ず解決の道を備えてくださると信じて、前に進める。ここに精神的な余裕が生まれたことで、いつも冷静な判断をもって信仰生活を歩むことができるようになりました。今は大学の理工学部で物理学を学びながら、テニスサークルで多くの仲間と共に時間を過ごしながら、また教会へ来て神様を礼拝し、子供達に教え、また教えられています。本当に充実した毎日を送っている自分が今あることを、感謝します。

  最後に、「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。」この詩編の言葉の通り、私はいつまでも主にあって主を賛美するものでありたいと思います。