![]() 日曜礼拝(2016年4月3日) 2016年4月3日 青葉台教会 主日礼拝 後藤モニカ牧師 ヨハネ21章1−14節 「あなたの心と魂を養われる主」 序論 愛する青葉台教会の皆さん、おはようございます。4月から青葉台教会に赴任しました後藤モニカと申します。今朝も、みなさんと共に礼拝をもてる幸いを感謝いたします。 先週は、イースター礼拝と祝会がもられました。 主の復活祭を迎え、全世界のクリスチャンが心から喜び、祝うことができたと思います。 今日は復活後1週目ですので、ヨハネ21章1—14節より、「あなたの心と魂を養われる主」と題してお話させて頂きます。 皆さんは、誰かからもてなしを受けたことはありますか。 ではイエス様からのもてなしをしっかり受けていますか。今日は皆さんとご一緒に、イエス様のもてなしを受けて弟子たちを見ていきましょう。 本論 T ティベリアス湖畔以前 信じ切れない弟子たち 弟子たちにとって、今までイエス様こそ、権威あるお言葉を語られ、奇跡を側近で見てきましたので、人々を勇気づけて導かれていることに感動を覚えながら、3年間従ってきましたが、突然逮捕され、十字架にかけられてしまった。 いつもイエスの後に従ってきたのに、その先に待っていたのは逮捕と処刑だったのです。 どんなに深い喪失感と挫折がペテロたちを襲っていたことでしょうか。 何を信じたらいいのかわからない状態でしょう。 弟子たちは「わたしは必ず3日目によみがえる」と予告を受けていましたが、自分たちの歩むべき道を絶えず示してくだっていたイエス様が亡くなってしまったのです。 しかし、3日目に予告通りにイエス様は蘇られました。 弟子7名のうち、特にペテロとヨハネは、墓の中でイエス様のご遺体はなく、亜麻布が丸めて置いてあったのを見て、ヨハネは信じたと書かれております。 復活されてから、イエス様は3度、弟子たちに話しかけられ、姿を現されていくのです。 @ 復活後、1番に婦人たちに現れましたが、婦人たちはイエスに声をかけられるまで、イエスだと分かりませんでした。 A エマオの道においても、2人の弟子たちは途中一緒に歩かれているのがイエスだと気が付かず、一緒に食事をする時まで弟子たちはイエスだと分かりませんでした。 復活された日の夕方の事です。 弟子たちが人々を恐れて家の中に隠れていたのですが、そこへよみがえられたイエス様が現れて下さり、弟子たちは大喜びはしたようです。 イエスが来られ、「あなたがたに平安があるように」と言われると、両手、わき腹とをおみせになられました。 しかし、そこにはトマスだけ不在だったのです。 それから8日後、今度は弟子11人が揃って家に集まっていると、「あなたがたに平和があるように」と言われ、2度も弟子たちの前に現されたのでした。 ところが、弟子たちはすぐにイエス・キリストを宣べ伝えようという話にはならなかったのです。 弟子たちはこれから何をしたらよいのか、分かりませんでした。 なぜでしょうか。 彼らは既に復活されたイエス様と2回も出会っていました。 けれども3年間いつもイエスの側近にいて、イエスの声を聞き、数々の奇跡を目の当たりにし、その姿を見てきたのに、それが適わなくなってしまったのです。 これは、弟子たちにとって大きな喪失な事でした。 その後、シモン・ペテロが「わたしは漁に行く」と立ち上がり、何人かの他の弟子たちも私たちも一緒に行くと言って、故郷に戻ってまた漁師として働きはじめたのです。 弟子たちにとっては、昔から慣れ親しんだガリラヤ湖です。 漁師として、いつどこに網をおろせば魚がとれるか、目をつぶっていても分かる自信があったでしょう。 漁師ならば何とか暮らしていけると思ったでしょう。 しかし、その日は夜通し頑張ったのに1匹すら取れませんでした。 ティベリアス湖とは、ガリラヤ湖と同じです。 ガリラヤ湖と言えば、みなさんは何を思い出すでしょうか。 ちょうど1年前、私もイエスラエルに行くチャンスが与えられて、行ってまいりました。 ガリラヤ湖のすぐそばにあるホテルに宿泊しましたので、早朝に湖畔で1時間前から湖の暗闇と朝日の昇るのを見ることができました。 とても美しく、深い慰めに満ちた朝でした。 2日目の午後、その日は風もほとんどなく、おだやかな湖面でした。 湖畔に出ると、おびただしい数の野鳥の声が聞こえてきました。 実際、舟に乗り、何十メートルも離れた所で、野鳥に餌を巻き、イエス様や舟に乗っている弟子たちが見ていた場所を見て、二千年前のイエス様もここに立ったのだろうかと思うと、なんだか不思議な気持ちになりました。 U舟の右に網を打ちなさい イエス様は、ティベリアス湖でまた弟子たちにご自身を現されました。3度目となります。 イエス様が宣教を開始された場所は、ガリラヤの地です。 その時、イエス様はガリラヤ湖の岸辺を歩かれ、ペテロとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをお呼びになったのです。 彼らは漁師でしたが、イエス様は「私について来なさい。人間を取る漁師にしてあげよう。」と言われると、彼らは、網を捨てて、舟と父とを残してイエスに従い、弟子となりました。 しかし、今は、イエス様と2回もお会いしたのに喪失感に包まれ、宣教活動を止めて、漁に出てきているのです。 何度網を打っても魚1匹さえ取れない。 イエスと出会う前は、漁で生活をたてていたはずなのに、今は信仰が燃えず、空しさだけが彼らを包んでいるようにも思えます。 一方、岸辺では、イエス様が炭火で魚を焼いておられ、パンもそろえて待っておられました。漁も空しい結果で終えた彼らに対し、「子たちよ。食べ物はありますか」と不思議な問いかけをされたのです。 しかし、問いかけた方がイエス様であることに気づかない弟子たちは「ありません」と応答しました。 弟子たちの応答で私たちに教えられるのは、「何も食べる物がない」ということです。 食べる物、命を養い、命を支え、霊肉の源となるもの、彼らは何も持っていなかったのです。「食べ物があるのか。」 「あなたは命の糧をもっていますか。」 「私が復活した後、喜びを携えて生きていますか。」待つ!!! この問いは、弟子たちや私たちに対して、今抱えている辛い現実に語りかけではないでしょうか。 待つ!! イエスは言われました。「沖に漕ぎだして、網をおろし、漁をしなさい。」 実は、弟子とされた時も同じように「沖に漕ぎだして、網をおろし、漁をしなさい。」と言われているのを一緒に思い出してみて下さい。 漁師のプロたちが一晩中苦労しても一匹も取ることができませんでしたが、イエスのただ一言、「沖に漕ぎだして、網をおろし、漁をしなさい。」と言われ、その通りにしました。 すると、おびただしい魚が取れ、網が破れそうになり、仲間の舟も呼んで2そうとも沈みそうになったのです。ペテロは、イエス様の足元にひれ伏し、「主よ、わたしから離れて下さい。わたしは罪深い者なのです」といいました。 イエス様は「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と宣言されると、彼らは、舟を陸に引きあげ、すべてを捨ててイエスに従って行きました。 今回もあまりの大漁で、もはや網を引き揚げることができない程です。 あの3年前の朝を思い出したのは、イエスの愛しておられた愛弟子だったと書かれています。その名前はヨハネ福音書に書かれているように、ヨハネという弟子です。 「主だ!!」と聞いたペテロや弟子たちはどんな気持ちだったでしょうか。 御言葉を頂いた時、まだイエスだと気づいていませんでしたが、奇跡を体験し、ペテロは躊躇せず飛び込み、急いで岸まで泳ぎ、弟子ペテロに戻っていたのです。 V 体も心も満たされ、再出発 ペテロを含め弟子の7名は、岸辺でイエス様から朝ごはんを頂き、もてなしを受けました。 いつも食べている魚とパン。 この朝食ほど、弟子たちの肉体的にも霊的にも満たされたごはんはないでしょう。 2回も復活の主とお会いしたのに本当に信じ切れず、裏切ったような思い、漁師に戻り、一晩中網を打ったけれども魚は取れず、もうどうしたらいいのかわからない。 そんな彼らに対して、イエスはなぜ信じないのか!!と問い詰めたり、叱責したりするのではありませんでした。 炭火で魚を焼かれ、パンを添えて、優しいお声で「朝ごはんを食べなさい」ともてなしを受けたのです。 復活後、3回もお会いして、肉体的にはもちろん、霊的にもどれほど十字架の赦しの慰めに満ちた朝食だったでしょうか。 弟子たちは、朝食後、主の赦しを自分のものとして、体験し、「あなたはわたしに従ってきなさい」と再びイエス様に言われたのです。 わたしたちは主から神の愛、即ち、十字架と復活が差し出されています。神の愛を信じ、自分のものとして、信じ、受け入れるならば、私たちは神の養子とされます。 イエス様に朝ごはんで満たされた弟子たち7名は、主の望む弟子なり、宣教をし、福音を宣べ伝えに行くのです。 わたしたちは、信じ、救われたら終わりではないのです。 わたしたちの肉体的にも霊的においても命の糧は必要なのです。 主はわたしたちの信仰を養い、今も生かして下さいます。 いつも健康で感謝できることは素晴らしいことです。 しかし、人間は弱いため、時には右肩下がりの時もあり心身ともに疲れるときもあるでしょう。 現実問題から逃げ出したいときもあるでしょう。 イエス様のおもてなしを受けて下さい。 結論 復活されたイエス様からの赦しを経験したら、私たちは肉体的にも霊的にも神に養われていきましょう。 霊的に養われるためには、復活のイエスに似ること、心と日々の生活に聖さを取り入れることが必要なのです。 イエス様は復活後、「聖霊を受けなさい」と弟子たちに伝えました。 また、「神が聖であるから、あなたがたも聖でありなさい」と御言葉にありますように、私たちはいつも聖霊の助けを受けることが必要なのです。 主に従うとは、日々生活の中で聖さ求め、イエス様ならどうするだろかといつも願うことなのです。 共に養われ、願いつつ、今週も歩んできましょう。 お祈りいたします。 |
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