日曜礼拝(2015年10月25日)
日曜礼拝(2015年10月25日)
「もう一人のスーパーヒーロー(主に従いとおした信仰の人、カレブ)」
ヨシュア記14:6〜14 2015/10/25(日)                                         満山 リベカ 
みなさん、おはようございます。
朝晩がかなり冷え込むようになってまいりましたが、体調は崩されていませんか?
本日は、主任牧師の江上先生がナザレン国立教会の創立52周年記念礼拝に招かれ、説教のご奉仕をなさっておられますので、私、満山リベカは、現在神学生なのですが、江上先生から説教の奉仕をするようにとの命を受けましたので、大変つたない者ではございますが、聖書のみ言葉をお分かちできればと思っております。

聖書にはたくさんの偉大なヒーローが出てきますが、今日はその中でも、特に神様に従いとおしたすばらしいヒーローをご紹介いたします。その人の名は「カレブ」です。
カレブは、旧約聖書の民数記、そしてヨシュア記、士師記に出ています。
その時代は、イスラエルの民をエジプトでの奴隷暮らしから解き放ち、エジプトから脱出させた偉大な指導者モーセが活躍いたしました。その出エジプトの物語は、「エクソダス」という映画も作られ、今年の1月頃日本でも公開され話題になりましたので、観に行かれた方も多いのではないでしょうか? また、モーセのあとを継いだ勇敢な指導者ヨシュアなど、有名なヒーローたちが出てきます。
今日はモーセやヨシュアと同時代を生きた、もう一人のスーパーヒーロー、カレブを取り上げたいと思います。カレブは、私たち神様を信じる者にとって大きな励ましであり、また本当に模範的な人物です。私、個人的には聖書の登場人物の中でも、もっとも魅力的に思う人物の一人です。彼は、神に対し厚い信仰をもち、普段は表には出て来ないですが、いざというときには揺るぎない確信のもとに人々を励まし、先頭に立つ人でした。そして、とても忍耐強く、目に見えている状況だけで判断せず、広い視野で物事を見て、いつも信仰を働かせ、先見の明があり、行動派で、何才になっても挑戦し続けることをやめない人でした。
カレブは、神様への熱い厚い信仰の持ち主でした。
今日はカレブの物語のうち、特に40才の時のカレブと、85才の時のカレブに焦点をあてて、カレブから学ぶ4つのポイントを見ていきましょう。
先ほど読んでいただいた聖書箇所は、85才になった時のカレブの姿です。
では、順を追って若き日のカレブからみていきましょう。

●若き日のカレブ
@神への信頼からくる確信がある:カレブがカナンへの偵察隊に選ばれたのは40 歳の時でした。(ヨシュア14:7)。イスラエルの指導者モーセは神様に「私があなたがたイスラエルの人々に与えようとしているカナンの地を偵察するために、イスラエルの各部族から一人ずつ、それぞれ指導者を出して、偵察に行かせなさい。」と言われたので、12名のものが、約束の地の様子を見に行く偵察隊として、送られることになりました。(民数記13章、14章に詳しく書かれています。) 40日後、12人の偵察隊はモーセのもとに帰ってきて、カナンの地はどうだったかを、モーセに報告しました。12名の偵察隊のうち、ヨシュアとカレブ以外の10人は皆怖じ気づき、こう言いました。
「ただいま偵察から戻ってまいりました。約束の地カナンは大変豊かで、果物もたくさん実るすばらしい土地でした!みてください、このぶどうを!!あまりにも立派で一房が大きすぎて、二人がかりでかつがないととても運べないほどのサイズです。ざくろやいちじくもたくさん取れます。まさに乳と蜜の流れる最高の土地です。しかし!そこに住んでいる住民はとても強く、町だって城壁に囲まれ、まるで要塞のように大きく堅固で、とてもじゃないけど攻め落とせそうにありません。しかも彼らはめちゃめちゃ巨人です。でかすぎます!我々が攻めていったって全く勝ち目はありません。あっという間にやられて殺されるだけでしょう。彼らに比べると我々なんて、いなごのような虫けらみたいですから。悪いことは言わない。モーセ、無理なもんは無理なんです。あの地は、あきらめましょう。」と言いました。
そんな時、積極的な思いを発言したのが、カレブでした。(民数13:30)。
「いやいや、断然上っていくべきです。そこを占領しましょう!必ず勝てますよ!」
しかし、イスラエルの人々は、10人の偵察隊のネガティブな意見を聞いて、ショックのあまり、声をあげて泣き叫び、夜通し文句をいいました。
「なんてこった!!!エジプトから苦労して脱出してきて、荒野でのつらい旅をして、結局これかい!!!約束の地には強くて巨大な敵がいて、我々はみんな殺されるんだ!ああ、ばからしい、だったらエジプトに引き返して、また奴隷に戻ったほうがマシじゃないか!!」
あまりにも不平不満ばかり言うイスラエルの民に対し、ヨシュアとカレブだけはこう言いました。
「何を言うのだ、あのカナンの土地はすばらしい豊かな土地だったじゃないか、もし、我々が神様の御心にかなうなら必ず神様があの土地を我々に与えてくださるのだ。我々には神様が共におられるじゃないか。彼らを恐れる必要なんかまったくないのだ。」
カレブは、こんな素晴らしい土地と町を神は与えてくれるという喜びと確信を持っていました。確かに大きな困難はあるでしょう。カナンの土地を手に入れるということは、もともと住んでいる強い巨人たちと戦わなくてはならないのですから。しかし、神様が我々と共におられ、しかもその神様がカナンの地を与えて下さるという約束をしてくれているのです。カレブは神の約束を心から信じ、感謝をしていたのでした。
ここに、現実の困難さに直面した時、神を忘れてしまい自分の知恵や力でどうにかしなければと思う人間との違いを見出すことができます。
私たちは、頭では神に対する信仰と信頼の必要は知っているかもしれないけれど、いざ試練や困難が自分に襲いかかってきたときに、カレブのようなブレない信仰を持つことができるでしょうか?何も問題や悩みがないとき、神様を信頼し、感謝することは誰でもできるでしょう。しかし、試練や困難に直面したときこそ、信仰の真価が問われるのです。

カレブは普段表には出て来ません。しかし、いざという時の要所要所で大切な役割を果たしています。
カナン偵察に行った12名中のうち10 名は、カナン征服は絶対無理だと諦めていました。
しかし、カレブは怖じ気づく彼らを責める事なく、また非難するわけでもなく、ただ励まし説得しているのです。大多数の反対の空気の中で、カレブは勇敢に、彼らに神の約束を思い出させて説いていったのです。しかしイスラエルの人々は、カナン征服に行こうと積極的に勧めるモーセ、ヨシュア、カレブをなんと殺そうとしました。それは、自分たちを圧倒的不利な状態であるにもかかわらず、巨人と戦わせようとしていると判断し、モーセ、ヨシュア、カレブを憎んだからです。そんな時に神の介入がありました。(民数14:10〜31)。幾度も神に反逆するイスラエルの民は、モーセの必死のとりなしゆえに、神様は赦されました。
しかし、神様への不信仰の罪の報いとして、10 名の偵察者たちは疫病によって死にました。そして不平ばかりを言ったイスラエルの民はなんとその後40 年もの長い間、荒野の道をたどる事になりました。

エジプトからカナン(現在のパレスチナ)は、直線距離だと約300kmと言われています。実際の道のりにしても、まっすぐ向かえばおよそ500kmといったところです。ちょうど東京大阪間を歩きとおすイメージで、健康な成人男性なら約2週間もあれば歩きとおせます。
実際にイスラエルの民が移動したと言われているこのルートを辿ってみても、シナイ半島をぐるっと約1500kmといったとことなので、3か月もあれば十分の距離と思われます。しかし、そのカナンに向かう旅の道中、イスラエルの民があまりにも不信仰で不従順だったため、神様はあえて40年という時間をかけて、彼らを訓練されたのです。イスラエルの民が神様により頼み、従う者となるためにはこの40年の期間が必要だったのです。3か月で行けるところを40年、水も食べ物もない荒野の旅、どれほど辛く過酷な旅だったでしょうか。

そして、ヨシュアとカレブ以外の、20才以上の大人は40年の間に荒野で全員死にました。しかし、神様は、信仰の人カレブにはっきりとこう約束をされました。「しかし私の僕カレブは、別の思いを持ち、私に従い通したので、私は彼が見てきた土地に連れていく。彼の子孫はそれを継ぐ」と。カレブは、大多数のネガティブな声にまどわされず、ただ神様を信じ従い続けたので、神様から大きな約束をいただきました。
しかし、カレブはその後すぐ、約束の地をもらうことができたでしょうか?いいえ、そうではありません。カレブは、神様から祝福の約束をいただいた後も、イスラエルの民と運命を共にしました。彼は共同体と共に生き、彼らのために祈り、働き、その内側から彼らを支え導きつづけたのです。カレブは、まさに共同体の力となって仕えつづけたのです。私たちはカレブを模範として学ぶ必要があります。
私たち一人一人は、教会という神様が与えてくださったこの共同体を、時に外野のように外から批判していないでしょうか?そうではなく私たちはカレブのように、教会の内側から愛によって支え、仕え、導きながらよりよくして行くために力を注いでいるでしょうか?これは、私たち一人一人が問われていると思います。

●高齢となったカレブ
そしていよいよ、先ほど読んでいただいた今日の聖書箇所に入っていきます。
偉大なモーセの死後、イスラエルの民の指導者となったヨシュアは、荒野での長い長い40年もの旅の後、神様がイスラエルの民に約束された地に入り、征服してそれぞれ相続地を勝ち取っていく必要がありました。ヨシュアは主に従い、次々と征服していきました。神様は高齢となったヨシュアに、未征服地を含んだヨルダン川の西岸の土地を、九つ半の部族にくじ引きで公平に分配するよう命じ、ヨシュアはその通りに従いました。
そこにあのユダ族のカレブがやって来て、くじ引きによらず、ヘブロンの地を割り当ててほしいと願い出ました。なぜ、特例が認められたのでしょう。

A積極的に生きる
カレブがカナンの地に偵察に行ったのは40才の時でした。それから、長い長い年月が経ちました。カレブは、荒野にて40 年、そしてカナンに入ってから先住民との戦いの日々の5 年間、の計45年間を経て、ついに85 歳になっていました。青葉台教会には、子供から信仰の大先輩まで、幅広い年齢層の方がおられますけれども、85才以上の方もおられると思います。さて、85才になったカレブはどんな様子だったのでしょうか?それではみなさん、共にヨシュア記の14章10節から12節を読んでみましょう。
「御覧ください。主がモーセにこの約束をなさって以来四十五年、イスラエルがなお荒れ野を旅した間、主は約束どおりわたしを生き永らえさせてくださいました。今日わたしは八十五歳ですが、 今なお健やかです。モーセの使いをしたあのころも今も変わりなく、戦争でも、日常の務めでもする力があります。 どうか主があの時約束してくださったこの山地をわたしにください。あの時、あなたも聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々がありますが、主がわたしと共にいてくださるなら、約束どおり、彼らを追い払えます。」
いかがですか?すごいですよね!
カレブは85才になってもなお積極的な生き方を求めているのがわかりますね。
カレブが高齢となっても健康で気力に満ちていたのは神様への強い信仰と、神様に対する固い信頼があり、常に積極的な生き方をしていたからではないでしょうか?
(ここでいう積極的とは、でしゃばりで向こう見ずで軽率という意味ではありません。カレブは、神様の御旨と導きに対して積極的であったのです。)

カレブは民数記13〜14 章の事件偵察隊の話以後、今日のこの箇所まで一切、聖書に登場して来ませんでした。いわば彼は舞台の背後に退いていました。しかしこの45 年を経て、いよいよ約束の地カナンを分配する時、つまりあの神様の約束の成就する時になって、彼は第一番目に、前に出て来たのです。これはいかに彼がこの日を熱望してこれまでを歩んで来たかということがわかりますね。過酷な荒野の旅の中では幾度となく、その希望も消えかかりそうな時もあったでしょう。荒野での40年もの長い年月の間に、次々に仲間は死んで行きました。同世代はヨシュア以外誰もいなくなりました。そしてこの地に入っても、いつ先住民との戦いで命を落とすか分からない危険の中にありました。しかし主はこの日までカレブを生きながらえさせ、今、約束通り、相続地を与えて下さったのです。神はこのように、約束を必ず果たされる真実なお方なのです。長い間、待たされても、神に信頼する歩みがむなしく終わることは決してありません。ですから私たちは恐れずに神に信頼を置いて歩んで行くことができるのです。

それに比べて私たちはすぐに成果や結果が出ないと苛立ちやすいものです。祈ってすぐ答えが与えられないと、不満を述べ、大声で騒ぎ、失望して、約束を投げ捨ててしまう。そんな私たちは改めて、カレブは待ち続けた姿を思い出しましょう。荒野の40年、そしてカナンでも戦いの5年間は、カレブにとって、神の約束を信じる「忍耐」を学ぶ期間だったと言えます。
(へブライ人への手紙10:36)「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」とある通り、神が約束されたことは必ずなると忍耐をもって信じつづけることが重要です。

カレブは85才で元気で壮健でした。まだ、戦うこともできます。なぜ、彼はこれほど元気なのでしょう。カレブは、神の約束が実現する日に備えて、鍛錬を欠かさず、セルフコントロールを心がけて生きていたのだろうと思います。
「主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました」(10節)とあるように、85歳で生かされている事自体が、神の真実さのあかしだとカレブは理解しています。私たちが今、生かされている事は、神様の尊い使命実現のため、神が期待してくださっているということなのです。

B更に困難な道を選ぶ:カレブはいつも全面的に神を信頼していました。
そして自分だけ良ければいいという考えではなく、いつも人々の盾として生きる人でした。そんなカレブが約束の土地の分配の際に、特権的に求めた相続地とはどこでしょう。普通は、緑多く、水豊かで、平坦で、平和な土地を望むと思います。
ところが、カレブは、平地ではなく「山地を与えてください」(12節)と言いました。
45年前、偵察隊たちが恐れをなした巨人族、ゴリアテの先祖アナク人が住む町、堅固な城壁をもつあの最も困難な土地ヘブロンを、あえてカレブは自ら進んで求めたのです。つまりは、更なる戦いの必要な場所でした。なぜでしょうか? それは、カレブの神に対する信頼は85才になってもいまだ衰える事は無く、むしろ歳を重ねるごとにますます確信は深くなっていたからです。またカレブがヘブロンの地を征服して治める事は、外敵からイスラエル全体を守る楯に、自らとなるという決断だったのです。そしてその後、カレブは見事にヘブロンを完全に征服することができたのです。

C主に従い通す信仰を持つ:それこそが、カレブの特徴です。14章を見てみると、「主に従い通した」と、8節、9節、14節と、何度も繰り返し出てきます。
「従い通す」とはどんな事でしょう。強敵が目の前に立ちはだかっても、神の約束があるので、きっと征服できると信じる事です。たとえ、仲間の大多数が不信仰に陥り、自分が少数派になっても、決して信仰の妥協をしない姿勢です。また10年、20年、40年と約束が実現しなくても、神様の約束の実現を忍耐して待てる心のことです。
不信仰に陥ったイスラエルの民は過酷な荒野で40年間を過ごし、最終的には全員が滅びました。
偵察当時生きていて、約束の地に入れたのはヨシュアとカレブだけでした。

私たちに置き換えてみるとどうでしょうか?
神の約束があるけれど、まだ実現していないとします。あなたはどう考えますか。
目の前に大きな困難が立ちはだかりました。あなたはどうしますか。
大多数がもうだめだ、無理に決まってると言います。あなたは何と言うでしょう。
ずいぶん時間がたってどう見ても実現不可能という雰囲気です。あなたはどうしますか。

「従い通す」とは、神様を信頼し、困難に動じず、多数派に飲み込まれず、長い年月を待てる信仰です。
カレブの信仰、従い通す信仰、これを私の信仰として定着させたいですね。
ローマの信徒への手紙4:21にあるように、「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」

このように、カレブの信仰は、私たちにとってとても模範的なのですが、私たちが信仰生活において実践して行くときに、そうはいっても難しい時も多々あるでしょう。私たちの歩みも、イスラエルの民が通された過酷な荒野のように、苦しく、先が見えず、でこぼこで歩きにくく、まっすぐに歩けない、疲れ切ってしまう時もあると思います。目の前に巨大なアナク人のような、大きすぎる困難や問題に直面することもあるでしょう。また、人には気づかれなくても、自分自身の内側の見るとき、汚れや醜さ、孤独さや、過去に負った傷、痛みなど、深い深い闇を見て、希望を失いかけるときもあるでしょう。
そんな時はカレブの言った言葉、ヨシュア記14:12を思い出してください。カレブは、「主がわたしと共にいてくださるなら、約束どおり、彼らを追い払えます。」と言いました。ここが一番大切です。「主がわたしと共にいてくださるなら」という条件付きで、カレブは勝利を確信していたのです。
私たちの前に、どんな苦しい荒野や、巨人のような強敵や、攻略不可能に見える険しい山が立ちはだかっても私たちは、この天地宇宙を造られ今も支配しておられる全能の神様が、私たちの味方であり、いつもともにいてくださり、日々守り、力を与え助けてくださるから、だから大丈夫と言うことができるのです。
私たち一人一人は、とても弱く、迷いやすく、罪深いものです。
自分の心の内側を見て「闇がない」と言える人はいるでしょうか?
自分を取り巻く状況や、世の中を見ても、目まぐるしく動き、変化し、不安は増すばかりです。

●コーリー・テン・ブーム 1892〜1983年。第二次世界大戦中に多くのユダヤ人をナチスから助けたオランダ人クリスチャン、ホロコースト生残者はこう言いました。
「世の中に目を向ければ、悩みが増すでしょう。自分の内側をのぞいてみても、落ち込むだけです。
しかし、あなたがキリストを見上げる時、心に安らぎが与えられるのです。」
まったくその通りだと思います。

私たち一人ひとりを造られた神様は、私たちがみな罪にまみれ、迷い出て、神様から遠く離れてしまって、苦しんでいるのをご覧になり、私たち人間を救うため、一人子イエスキリストをこの地上に送ってくださいました。神様は私たち一人一人を心から愛しておられるからです。イエス様は神の子でしたが、人間の姿をとって、私たちを罪から救うために、この世に来られたのです。
そして、ただの一度も罪を犯さなかったのに、すべての人々の罪を背負い、身代わりになって、十字架で命を捨ててくださったのです。そしてイエス様を救い主をして信じる者は、すべての罪が赦され、滅びから救われ、永遠の命がいただける道を作ってくださったのです。
ローマ10:11で、 聖書はこう言っています。「主を信じる者は、だれも失望することがない。」
主とは、イエス・キリストのことです。イエスキリストを信じ、従うものは、死んだあと天国に行けるだけではなく、今生きているこの地上でも、イエス様がいつも一緒にいてくださいます。どんな時でも、どんなに苦しい時でも、どんなに周りに非難されても、イエス様はあなたの味方であり、かばってくださるのです。そして、私たちを愛で満たし、心に平安を与え、知恵と力を与えてくださるのです。

私たちも主に従いとおしたカレブのように、どんなときでも主の約束を握りしめ、どんな時でも助けてくださるイエス様とともに、忍耐強く歩んでまいりましょう。

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