![]() 日曜礼拝(9月6日) 日曜礼拝(三位一体後第十四) 2015.9.6 「シンデレラ(死んでれら)・生きてれら」 マルコ5:21-24a,35-43 T導入部 皆さんおはようございます。上芦別教会の兄弟姉妹、おはようございます。9月の第一日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝します。 あの8月の35度の暑さは去り、残暑とは言えない涼しさを感じます。秋の季節に移ろうとするこの月も礼拝と祈り会を大切にしたいと思います。 今日は、「シンデレラ(死んでれら)・生きてれら」という題でお話しますが、保坂兄がFaceBookで、この説教題からかなり昔のキンチョーの殺虫剤の宣伝で、「死んでれら、飛んでれら」というコマーシャルを紹介して下さいました。私は、そのことは全く頭になく、ディズニーの「シンデレラ」と「死んでれら」を賭けて、死んだ少女、「死んでれら」がイエス様によって生かされた、「生きてれら」になるという説教題です。今日は、この題で、マルコによる福音書5章21節から24節aと35節から43節を通してお話したいと思います。 下川可代子姉の告別式では、このヤイロのお話の間にある女性のお話をしました。下川姉の聖書に、線が引いてあった箇所でした。そして、今日の箇所も姉妹の聖書に線が引いてあったので、この箇所からのメッセージとさせていただきました。 U本論部 一、イエス様を探せ ここに出てくるヤイロという人物は、会堂長で人々から尊敬され、会堂の務めや社会的な事件の処理をする長老でした。いつもは人々から頭を下げられているヤイロでしたが、この時とばかりは、イエス様を見ると、イエス様だとわかるとイエス様の足元にひれ伏したのです。自分が今立っている権威や地位も、今まで築き上げて来たものも、今の問題には何の役にも立ちませんでした。自分の愛する娘が死にそうだったのです。どのような医療行為も薬も娘を癒すことはできなかったのです。人間の力を超えた問題に、ヤイロは当時、人々の病をいやすイエス様の事を聞いていたでしょう。普段は、イエス様の働きや癒しの業も自分とは別に関係がないので何とも思わなかった。けれども、自分の大事な娘が死にそうだという状況の中で、ヤイロはイエス様の権威や力を思いだし、イエス様を探し、見つけ出し、イエス様の前にひれ伏さずにはおれなかったのです。どうしても、願いを聞いてほしい。何とかしてほしい。娘を助けてほしい。その一心で、偉いヤイロが頭を下げたのです。ヤイロに頭を下げさすほどの一大事だったのでした。 普段、教会や聖書、イエス様に対して何も感じない人々が、やはり自分の力ではどうすることもできない状況を経験する時、その思いが、心が教会に、イエ様に足を向けさせることがあるのだと思うのです。私たちは、このイエス様を知る者として、普段からイエス様の事を紹介したい。自分がクリスチャンである、教会に行っているということだけでも、お知らせしておくことは、いざという時、役に立つ。助けになるのです。 ひれ伏すというのは、イエス様に権威をすべて任せるということです。今、困難に中にある方々がおられるでしょう。このヤイロのように、イエス様にその権威を全てをお任せして、お委ねして歩みたいと思うのです。 二、絶望は希望に変わるから恐れないで信じよう 23節を共に読みましょう。「しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」」 ヤイロはイエス様の権威にすべてをお任せしたはずなのに、そのことを見失ってイエス様に癒しの方法と時を指図してしまっているのです。すぐに来て、手を置いて祈ってほしいと願います。 イエス様にもその日の予定があったはずです。行かなければならない人の所もあったでしょう。けれども、イエス様は、「ヤイロと一緒に出かけて行かれた。」と聖書は記しています。聖書を見るとをイエス様は、言葉による約束だけで癒すことができました。マルコ7章に出てくる悪霊に取りつかれた娘の母親は、ただイエス様の癒しのお言葉を信じ帰り、娘の癒しを体験しました。信仰あるローマの百人隊長も、部下の癒しに関して時も方法もすべてイエス様にお任せして、「ただ、お言葉を下さい。」と信じる信仰を持ち、部下を癒していただきました。イエス様は忙しいのですから、ここでも、癒しのお言葉を与えて癒すこともできたはずです。それなのにもかかわらず、イエス様はヤイロに合わせてヤイロの信仰に合わせてでしょうか、群衆に話しておられた説教を中断し、自らの大切な予定を変更してまで、ヤイロのある意味での強引な願い、願いと言うよりも指示に従ってイエス様は娘の所に行かれるのです。ヤイロの頭には、すぐに来て、手を置くという自分の考え、自分の可能性通りに事が運ぶことが大事だったのです。 しかし、ここで邪魔が入りました。12年間も出血の止まらない病で苦しんでいる女性がイエス様に触り、誰が触ったのか、とイエス様が探すというアクシデント。ヤイロからしたらアクシデント、この女性からしたら、最後の癒しのチャンス。時が刻々と進み、ヤイロの顔からは血の気が引いていきました。 時間がない時に限って、問題が起こるということはよくあることです。すると、ヤイロの家から使いが来たのです。「お嬢さんは亡くなりました。」ヤイロの恐れていたことが現実となりました。「だから、早く一刻も早く行ってもらわないとだめだったのに!」ヤイロの頭にある可能性が、音を立てて崩れて行った瞬間でした。「お嬢さんは亡くなりました。」 万事休す。もうどうにもならない。ヤイロの失望、絶望、苦しみがそこにありました。娘は死んだので、「先生を煩わすには及ばないでしょう。」と使いの言葉は、絶望を現していました。 私たちも、どうにもならない事柄を経験します。自分の考え通りに行かない。思い通りにならない現実を経験します。しかし、イエス様は、ヤイロと使いとの、その絶望的な会話を聞いてもなお語られるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」と。どんないマイナスが私たちを囲もうとも、恐れるな、信じろとイエス様は語られるのです。 三、眠りから覚めるように 信仰と言うのは、自分の考える可能性や、その思いや考えに従って神様に働いていただくことではありません。私たちの側が、どんなにマイナスを経験し、絶望が訪れようとも、それらのことをはるかに超えて、神様の、イエス様の考えや計画にお従いして、イエス様の思い通りに、自由に、力強い働きをしていただくことなのです。私たちの側が主ではなく、イエス様が主なのです。 絶望の中にいるヤイロにイエス様は、「恐れることはない。ただ信じなさい。」と語られました。そして、イエス様はご自分の計画通りに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、ヤイロの家に向かわれたのです。会堂長の家に着くと、人々が大声で泣いていました。幼い子どもが死んだのですから、その悲しみは大きいものでした。辛いものでした。リビングバイブルには、「ヤイロの家に着くと、だれもかれもが取り乱し、大声で泣いたり、わめいたり、たいへんな騒ぎです。」とあります。イエス様は家の中に入り、「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と言われました。それを聞いた人々は、イエス様をあざ笑いました。ばかにしました。確かに娘は死んだということを知っていたからです。 イエス様の死に対する考えは、眠りでした。イエス様の前では、死は眠りに過ぎないのです。死は、人間にとって最大の恐れです。しかし、イエス様にとっては、死はひとつの終わりではなく、眠り、また覚める時が来るのです。私たちが、夜眠り、朝になると目が覚めるように、死は死のままでは終わらないのです。 罪のために、死ななければならなくなった私たち人間の罪のために、イエス様は十字架に身代わりにかかり、父なる神様の罰を受け、尊い血を流し、命をもって私たちの罪を赦し、魂を救って下さったのです。そして、死んで葬られて、それで終わりではなくて、三日目によみがえり、神であることを示されたのです。イエス様ご自身も、神様であるのにもかかわらず、死を経験されたのです。しかし、その死をよみがえり、復活に変えられたのです。そして、イエス様は復活の初穂となられ、私たちにも復活の命、永遠の命を与えて下さるのです。 イエス様は、ヤイロの娘のところに行き、「タリタ、クム」と言われました。「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい。」毎朝、お母さんが子どもたちに言う言葉でしょう。 イエス様の宣言の言葉、力ある言葉により少女は、確かに死んでいたけれども、生き返ったのです。シンデレラ(死んでれら)が生きてれら、になったのです。 ヤイロはどんなに喜んだでしょう。あの時、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」という使いの言葉を信じて、イエス様をそこに残して帰って来ていたら、娘は生き返らなかったのです。自分の信念、早く来て、手を置いて祈る、という自分勝手な信仰、そのはかなさをヤイロは経験したのだと思うのです。 私たちも、自分の思いや願い、その時を神様に自分の考えに従わせようとすることがないでしょうか。そして、その思いや考えが崩れた時、私たちは絶望を経験するのです。しかし、イエス様は、私たちの思いや考えが崩れた時から、信仰が始まると示されたのだと思うのです。 V結論部 イエス様は、わざわざヤイロの家に行かなくても、お言葉の権威だけで癒すことができました。けれども、ヤイロの一方的な願い、彼の思い、時も方法も自分の仕方の通りに行けば娘は治る、という生き方から自分の持つ全ての可能性が取られても、希望が失われても、現状がどんなにマイナスでも、イエス様は語られるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」と。現状を見ると恐れます。でも、「恐れることはない。ただ信じなさい。」と言われるイエス様のお言葉に信頼すること、それが私たちのすることなのです。 今、あなたの立場が、そして現状が、どんなに最悪でも大丈夫。マイナスに囲まれていても大丈夫。希望がなくても大丈夫。私たちの現状が問題なのではなく、「恐れることはない。ただ信じなさい。」と言われるイエス様の言葉にゆだねない、信頼しない態度が問題なのです。イエス様には希望があり、私たちを必ず助けて下さるのです。 「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」とイエス様が言った時、多くの人々はあざ笑いました。馬鹿にしたのです。でも、少女は、まるで眠りから覚めるようによみがえったのです。イエス様の権威と力です。この権威あるお方が私たちの味方です。この週も、このお方が共におられます。恐れないで、ただイエス様を信じて歩んでまいりましょう。 |
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