日曜礼拝(2016年3月6日)
日曜礼拝(2016年3月6日)
日曜礼拝(受難節第四)       2016.3.6

「小さくても弱くても大丈夫」 ルカ19:28〜44

 T導入部
 おはようございます。3月の第一日曜日を迎えました。2015年度の最後の月です。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝いたします。
 木曜日と金曜日にナザレンのアメリカの本部からグレイブス監督夫妻とマーク・ロー師家族が来日され、古川理事長、石田校長先生、藤沢教会の江頭兄と私と日本のキリスト教や日本ナザレン教団についての話しや交わり、また、二日目は東京博物館や靖国神社での日本や日本の宗教についての学び、三軒茶屋教会と下北沢教会訪問、三軒茶屋教会ではユーオディアの方々が、素晴らしい演奏をして歓迎して下さいました。
 二日目は随分歩きましたし、全てが英語という状況で、久しぶりにどっと疲れが出ました。でも、グレイブス監督はフレンドリーな監督で、とても良き交わりをさせていただきました。日本の教会のため、日本の働きのために、祈り、協力して下さるという思いが伝わってきました。日本ナザレン教団は、世界のナザレン教団のひとつであることを思わされ、これからも世界の教会や人々とかかわりをもたせていただきたいと思いました。
 さて、今日はルカによる福音書19章28節から44節を通して、「小さくても弱くても大丈夫」という題で、お話ししたいと思います。
 
 U本論部
 一.すでにイエス様の働きのために備えられていた子ろば
 今日の聖書の箇所は、イエス様のエルサレム入城の記事です。受難週の日曜日のことになります。イエス様がエルサレムに入城されるということは、その週の金曜日に十字架にかかり死ぬということを現しています。イエス様にとっては、このエルサレムに入城されるということは、覚悟のいる、腹をくくるといいますか、ある意味での決心があったのだと思います。
 私たちの生活の中でも、この時期であれば1年間学んだことを発揮するために、試験場に入る受験生の覚悟、決心とも言えるかも知れません。結婚式を迎える花嫁、花婿の思い、特に花婿は結婚して嫁をもらい、一人で自由に暮らしていた時とは違う、腹をくくる思いや決心がそこにあるという意味で結婚式に臨むということかも知れません。
 毎週、講壇に立つ、牧師の思いもそのような決心、今日でなければ語れないメッセージ、神の言葉を語る者の決心や腹をくくるというような思いがあるのかも知れません。
 イエス様は、このような事柄とは全く次元の違う、ご自分の全てを捨てる、命を捨てる、神のさばきを受けるためのエルサレム入城であったのですから、その心の中は覚悟が、覚悟というよりも、神様のみ心、神様の人間に対する救いの道に従順であったのです。
 イエス様は、ご自分がエルサレム入城のために弟子たちを使いに出し言いました。「まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。」 子ろばがつないであるので、それをほどいて来るように言われました。イエス様は、子ろばに乗ってエルサレムに入城されようとしました。人を乗せるには馬が普通ですから、ろばに乗るとは普通ではありません。ましてや子ろばになると、子ろばに乗るとはより不格好になるのかも知れません。普通とは違った方法でのエルサレム入城、イエス様は楽しい人でもあったので、人々を驚かせようとしたり、目立つように変わった方法で入城を考えたのでしょうか。それとは違ったお考えがありました。
旧約聖書のゼカリヤ書9章9節には、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、たかぶることなく、ろばに乗ってくる、雌ろばの子であるろばに乗って。」 メシア預言ですが、イエス様はご自身が救い主としての自覚を持ち、神の言葉、聖書の言葉の預言の成就として子ろばに乗ってエルサレムに入城されるのです。イエス様はどんな時でも聖書の言葉に忠実に歩まれました。私たちも日々、聖書に触れ続け、神の言葉に従う者でありたいと思うのです。

 二.平和のイエス様は力の主でもある
 弟子たちは、イエス様のいいつけ通りに村へ行き、子ろばがつないであるのを見つけます。そして、子ろばをほどいていると持ち主が「なぜ、子ろばをほどくのか」と言いました。イエス様は、このことをご存知であって、そのように言われた場合にどう答えるべきかを言っていて下さいました。「主がお入り用なのです。」と言いなさいと言われていたので、弟子たちは、「主がお入り用なのです。」と答えると、許してくれたのです。そして、子ろばをイエス様のところに連れて来ました。そして、子ろばの上に服をかけイエス様をお乗せしました。また、人々は自分の服を道に敷いたのです。イエス様は、旧約聖書の救い主、メシアの預言の通りに、子ろばに乗ってエルサレムに入城しました。また、人々が自分の服を道に敷くという行為は、王様に対してなされた行為だったのです。
 弟子たちは、イエス様の数々の奇蹟を思い出し、声高らかに賛美をしました。皆さんと共に38節を共に読みましょう。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」
 イエス様がお生まれになった時、天使はこう賛美しました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」 38節では、「天には平和」とあり、クリスマス、イエス様が誕生された時には、「地には平和」とあります。平和というのは、神様から与えられるものであり、神様の支配で満ちているということです。平和とは神様のご支配であり、イエス様がこの地に誕生することによってもたらされるものなので、「地には平和」と天使たちは賛美しました。そして、イエス様が全人類の罪のために十字架にかかり死なれ、よみがえり、天に帰られることにより「天には平和」があるということなのです。イエス様によって、天にも地にも平和があるということです。
 弟子たちはイエス様をほめたたえました。大きな声をだしたのでしょう。それを聞いてたファリサイ派の人々が、弟子たちを叱るようにと言うとイエス様は言われました。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
 この世は、権威や権力で屈服させるということがよくあります。私たちは、神様を信じていますけれども、この世の権力や世的な何かで信仰さえも危ぶまれることがあります。イエス様は、ファリサイ派の人々が弟子たちの賛美をやめさせようとしましたが、彼らが黙れば石が叫ぶ、と言われ人間のどのような力や権力でも、神様の業は押しとどめられないことを宣言されたのです。
 イエス様も律法学者やファリサイ派の人々の嫉妬や憎しみで十字架にかかられ、命を落とします。しかし、復活という人間では考えられない神様の力が現されたのでした。
 私たちの信仰を覆い隠すような出来事や問題があろうとも、神様の力は圧倒的なのであって、この世のどのような力も太刀打ちできないのです。そのことを信じて、この世に置かれた歩みですが、イエス様に信頼して歩みたいと思うのです。

 三.イエス様はあなたを用いるのです
 イエス様は、エルサレムの都が見えた時、泣かれたと聖書は記しています。イエス様が泣かれた記事はあまりありません。ラザロが死んだとき、マルタとマリアが「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言って泣いている姿を見て、「イエスは涙を流された。」と聖書は記しています。
 イエス様は、ご自分の十字架を前にして、エルサレムの都を見て、イスラエルが滅び去ることを預言して泣かれたであろうと言われています。実際この後、紀元70年にエルサレムが滅亡したのでした。
 イエス様は、イスラエルの不信仰のゆえに泣かれましたが、その不信仰な者のためにも、ご自身の全てを十字架でささげられたのです。そして、同じように、神様の前に不真実な私たちのために、イエス様は十字架にかかり、尊い血を流し、その命をささげて下さり、私たちの罪を赦して下さり、死んでよみがえることにより、私たちに永遠の命を与えて下さったのです。
 イエス様のエルサレム入城は、十字架につくためでした。そして、それは神様の救いのご計画でした。その救いのご計画のために選ばれたのが子ろばだったのです。当時のろばは、王が戦いのためではなく、平和のために用いたものでした。あまり利口ではなく、のろまなろばを神様は平和の使者として用いて下さったのです。本来ならば、選ばれるはずのないろばではありましたが、しかし、神様はすでに旧約聖書の預言として、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、たかぶることなく、ろばに乗ってくる、雌ろばの子であるろばに乗って。」と記していて下さったのです。
 「主がお入り用なのです。」とは、その主人であるお方が必要としておられる、というような意味」があるそうです。ろばの主人とは、そのろばの持ち主ではなく、本当の持ち主であるイエス様ご自身が必要としておられるのです。ろば自身には、その働き、エルサレム入城という尊い働きのためには、ふさわしくない存在、その働きに十分に答えることのできない存在であったことでしょう。しかし、イエス様ご自身が名指しで選ばれたのです。
 同じように、イエス様は私たちをも用いて下さるのです。私をもあなたをもイエス様は必要としておられるのです。そのようにイエス様は私たちを用いようとされておられるのに、私たちは自分のいたらなさや弱さ、小さいことにこだわり、自分のようなものには、何もできないと思ってしまいます。私たちは、自分自身を見ているとどこにも希望がないのです。けれども、自分が自分を見て、どこにも希望がない者をイエス様が用いようとしておられるということに、気が付くこと、感謝すること喜ぶことが大切なことだと思うのです。
 ろばという動物、誰もが気が付かず、見向きもしなかった動物をイエス様は、あえて選ばれて、ご自身の栄光のために用いられたのです。そして、私たちも、自分が自分を見ても、他の人が自分を見ても、誰も振り向かず、気にもしない私たちをイエス様は、ご自身の働きのために、栄光のために用いて下さるのです。このろばは、誰も乗ったことのないろばでした。それは、聖なる働きのためにだけ用いられるろばという意味があります。まだ、神様のために何の働きもできていないと思うならば、それは、まだ誰も乗せていないろば、聖なる働きのために用いられるためのろばなのです。そのあなたは、神様のために、聖なる働きのためにとっておかれているのです。だから、弱くてもいいのです。小さくてもいいのです。今用いられていなくてもいいのです。必ず、神様のために用いられる時が来るのです。なぜならば、あなたはすでにイエス様の十字架と復活により、救われ、神様のものとされているからです。

 V結論部
 弟子たちは、イエス様の言いつけ通りに行動したら、イエス様の言ったとおりのことが起きました。私たちの生き方は、イエス様の言葉従って生きるということ、聖書の言葉に忠実に従った生活であるということです。ですから、日々、神様の言葉、聖書の言葉に触れ、いつも十字架と復活の恵みにあずかり、語られる言葉に従って行動することです。そうするなら、神様の驚くべきみ業を体験することができるのです。
 イエス様は、私たちを用いて下さいます。私たちにその性格を与え、弱さを持ったままの私たちが、子ろばのように、思いもかけないような場所で、状況で、用いられるのです。ですから、「私をあなたの尊い働きのために用いて下さい」と祈り、ふさわしい時に、ふさわしい形で用いられることを覚えながら、子ろばのように、選ばれた時、用いられる時、精一杯の働き、心を込めての働きをさせていただきたいと思うのです。
 イエス様はすでに私たちを選び、その働きのために用いられるのです。できるかどうかと自分を見る必要はありません。できない自分がイエス様に支えられ、守られ、強められてできるようにされるのです。大丈夫、イエス様は、あなたをすでに選び、立てておられるのです。恐れることはない、と宣言し、あなたのそばにいつも共におられ、あなたを支えて、神様の働きのために、あなたを聖別しておられるのです。
この週も、私たちは家族の元へ、友人の元へ、同僚の元へ遣わされていくのです。それは、神様の尊い業のために、イエス様に選ばれ、立てられ、用いられるためなのです。
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