![]() 日曜礼拝(2016年1月3日) 新年礼拝(降誕後第二) 2016年1月3日 「すべての事が感謝につながる」 ヨハネ6章1節〜15節 T導入部 おはようございます。新年あけましておめでとうございます。2016年の最初の日は、元旦礼拝がありました。預言者エリヤをカラスに養わせる、やもめに養わせると神様が語られた。汚れた鳥とされているカラスに何ができるのか、最も弱い存在である、人に助けてもらわなければ生きていけないやもめに養うことができるのか、ということを考えるのではなくて、そのように語られた神様に目を向け、そう語られた神様の言葉に信頼することをお話しさせていただきました。 今日は3日、まだ正月の三が日です。今年は、3日が日曜日なので1日の元旦礼拝はしないという教会もあったようです。それはそれでいいと思います。私たちは、2016年の最初の日、元旦礼拝を守り、そして、2016年の最初の日曜礼拝、新年礼拝として、今年の最初の礼拝をささげることができますことを本当に感謝いたします。 皆さんは、お正月、お餅を食べられましたか。一昨日のニュースで、お年よりの方々8名が、餅を咽につまらせて亡くなられたということを話しておりました。ベタニヤ会の方々は、お餅を食べられましたでしょうか。これから、お餅を食べる機会があるでしょう。お餅を咽に詰まらせないようにお食べ下さい。 お正月は、毎日のようにご馳走を食べて体重がグンと増えているのではないでしょうか。体重の増加はとても気になりますが、私たちは霊的な増加も気にして、毎週の礼拝で、日々のディボーションで培っていきたいと思うのです。 今年最初の礼拝、新年礼拝で選ばせていただいた聖書の箇所は、ヨハネによる福音書6章1節から15節です。「すべての事が感謝につながる」という題でお話し致します。 U本論部 一、助けをどこに求めるのか 今日の箇所は、ガリラヤ湖の向こう岸でのお話しです。イエス様の所に多くの人々が後を追ってきました。当時のスーパースターですから、多くの追っかけがいたわけです。病人たちを癒されたので、病気を癒してほしい人々や癒しの力に圧倒された人々、イエス様のお話しが聞きたい人、イエス様のお顔を見たい人、興味本位の人々と大勢がイエス様の後を追いました。それに加え過ぎ越し祭が近づいていたというのですから、多くの人々がいたのだと思います。 正月の元旦には、多くの人々が神社仏閣に押し寄せます。今年の1年の成功や祝福を願って行く人、正月は初詣と習慣から行く人、家にいるのも何なんで、友達と初詣に行く人と、それぞれに理由があることでしょう。 イエス様の元にもそれぞれの理由で集まった多くの人々がいたのです。イエス様は、多くの人々がご自分の方へ来るのを見られて、フィリポに言われました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」 マタイ、マルコ、ルカによる福音書には、群衆がイエス様の話しを聞いていて時もだいぶ遅くなったので、弟子たちに、「あなたがたが食べ物を与えなさい」とイエス様が言われています。 ヨハネによる福音書では、フィリポを名指して、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」と尋ねられたのでした。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」と答えました。イエス様の質問は、「どこでパンを買えばよいだろうか。」ということですから、東急でとか、フジガーデンでとか、成城石井でという答えになるのでしょうか。フィリポは、「どこでパンを買えばよいだろうか。」という質問に、はなから、そんな場所どころではない。お金の問題としてとらえました。男が5千人ですから、女性子どもを合わせて、最低1万人、現在の青葉台教会の男女の比は2対1ですから、それから考えると、女性が1万人、男性5千人、子ども5千人として多くて2万人ということになるでしょう。ですから、これだけの数を買うだけの資金がないということです。 6節を見るとイエス様は、「フィリポを試みるため」であったことがわかります。ここには、4つの問題点がありました。経済の問題、多くのパンを買う大金は誰も持っていない。 場所の問題、人里から離れた場所では、パンは調達できない。時間の問題、これだけの人数の人に今パンを調達することは無理。奉仕者の問題、誰がそれをするのか。これらの状況考えた時、フィリポの頭の中では、可能性はゼロだったのです。 困難な状況を経験することがあります。不可能だと判断せざるを得ない時があります。そのような時、どこに救いを助けを求めるのかということです。私たちはどうでしょうか。 二、イエス様には先が見えている 6節には、「御自分では何をしようとしているかを知っておられたのである。」とあります。イエス様には答えがあったということです。リビングバイブルには、「どうするかは、もうとっくに決めておられたのです。」とあります。フィリポがどう考えようが、何をしようがイエス様はご自分がすべきことを決めておられたのです。 私たちも神様に試されること、試験されることがあるかも知れません。他の人に比べて、苦しいことや悲しいことを経験する。他の人と比べて、その困難の度合いが大きい。なぜ、自分だけがこのような貧乏くじを引くのか、その時、どのような考え、どのように生きるのか。どこに、誰に助けを求めるのか、試されることがあるでしょう。けれども、イエス様にはすでに答えがあるということです。あなたの、その苦しみや悲しみ、痛みや恐れに対して答えを持っておられるのです。だからこそ、答えを持っておられるお方に聞き、その語られえることに従えばいいのです。 8節からは、ペトロの兄弟アンデレについて記されています。アンデレは自分自身には何かができるという自信はありませんでしたが、とにかく人をイエス様の所に連れて来た人でした。アンデレは、調査することが得意だったのかも知れません。今回も、イエス様がフィリポに言ったこと、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」ということを聞いていたでしょう。そして、人々の中に入って行って調査したのです。どんな人がいて、また、人々が何を持っているのか。どんな食べ物を持っているかを調査したのです。いろいろな問題があった時、現状を調べるということは大切な事です。 昨年11月に大阪桃谷教会で開催された伝道フェスタの主講師である横山英実先生は、講演の中で、教団の、教会の現状を知り、認識することは大切な事ですと語っておられ、私たちの日本ナザレン教団の分析したことを紹介されました。そして、「危機感を持ってください」と力説されました。今週の水曜日から聖書研究が始まりますが、この一か月は、伝道フェスタの横山先生の講演と分科会を皆さんと見たいと思っています アンデレは調査して、大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年を見つけました。そして、彼はこう言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何に役にも立たないでしょう。」 アンデレはとにかく、食べ物を見つけてイエス様に報告しました。けれども、そのわずかな食べ物では、不可能だと判断したのです。アンデレは、不可能だと判断しましたが、イエス様に「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。」と報告はしたのです。不可能だから言っても仕方がないではなく、イエス様の所にそのことを報告したのです。とにかく、食材があることを示したのです。そして、イエス様は、その食材を奇跡の食材とされるのです。 私たちは、わずかだからとイエス様に何も言わないということはないでしょうか。自分の信仰は小さいから、自分のできることは何もできない。少ないから。これぐらいのことでは申し分けないからと自分のできることを黙ったまま、イエス様に話していないことはないでしょうか。アンデレはとにかく話しました。そして、そのわずかな食材が奇跡の食材となったのです。あなたのできることは少ないかもしれない。能力も少ないと考えておられるかも知れない。イエス様の前にはわずかとか少ないとか、能力がないということは問題にはならないのです。それをイエス様に示すかどうかが問われているのです。 三、私たちには神様の法則がある イエス様は、アンデレの話しを聞いて、人々を座らせました。そして、父なる神様に感謝の祈りをささげました。そして、少年の持っていた5つの大麦のパンと2匹の魚を使って、集まった人々に分け与えられたのです。11節には欲しいだけ与えられた、と記されています。人によっては、1つのパン、半分の魚でいいと言う人もいれば、パン10個、魚5匹食べる人もいます。各自が欲しいと望む量を与えられたのです。イエス様のおもてなしは、食べ放題、バイキングスタイルだったということです。 フィリポは言いました。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」と。アンデレは言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何に役にも立たないでしょう。」と。リビングバイブルには、「でもなあ、こんなに大ぜいじゃ、焼け石に水かな?」 私たちが考えることは皆同じだと思います。経済の問題で不可能です。これほどのものがあっても役には立たない。会社でも、学校でも、どこの場所でも、教会でさえも、そのように考えます。また、あるのにはあるけれども、意味がない。役に立たない。そう考えます。 マルコによる福音書には、「パンは幾つあるか見て来なさい。」と弟子たちに調査させました。手元にどれぐらいあるのか認識させられたのです。「多く集めてきなさい」ではないのです。私たちは、人間の法則で物事を考えます。それは当然の事です。けれども、私たちは、神様、イエス様を信じる者として神様の法則を知っているはずなのです。数学や計算でははじき出されない結果が神様の法則です。フィリポは数学、計算で、人間の法則で判断しました。アンデレも、人間的な常識では判断しました。けれども、イエス様は、1万人、2万人という人々が集まって、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」とフィリポに尋ねられましたが、御自分では何をするのか決定されていたのです。 元旦礼拝でお話ししたやもめは、最後の小麦粉と油で最後のパンを焼いて、それを食べてしまえば死を待つだけという人間的な判断でした。そのような状況で、エリヤは、「まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい、その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。」と言いました。「なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」という神様の約束も語りました。与えたらなくなってしまうのではなくて、祝福されるというのです。 少年の持っていた5つの大麦のパンと2匹の魚は、イエス様の手に渡したらなくなってしまうのではなくて増やされたのです。5つも大麦のパンと2匹の魚は、何千倍、何万倍にも増やされたのでした。神様の法則は与えれば与えるほど増し加えられるということです。私たちは、人間の法則だけで生きるのではなくて、神の法則があることを覚えて、神様の法則に信頼したいと思うのです。 V結論部 少年が持っていた大麦のパンは、最も安い物で、いやしめられていたパンです。貧しい人々が食べるパンでした。魚は、塩漬けにされ、口直しにされたようなもので、乾燥した大麦のパンのおかずに食べられていたようです。アンデレは、パンの数だけではなく、その品質にもダメだと感じたのではないでしょうか。品質がどうであれ、数がどうであれ、少年の手にそれがある限り、それはただの一人分の弁当でしかありませんでした。しかし、それがイエス様の手に渡された時、ささげられた時、奇跡が、神様のみ業が起こされたのです。 私たちは、神様から多くのものが与えられています。そして、それは私たち自身の手にある限り、それは私、あなただけに役立つものでしょう。しかし、それらの物がイエス様に手に、神様にささげられた時、あなただけではなく、多くの人々に、それを必要としている人々を助け、支え、守ることになるのです。自分の手に残すことは何も問題がありません。それはそれでいいです。けれども、神様に示された時、問題や困難があなたの周りに起きた時、神様が示されたら、それを差し出す勇気と決断を持っていただきたいと思うのです。ささげたら減るのではなく、増し加えられるのです。 神様は大麦のパン、塩漬けにした魚、もっともいやしいものを用いられました。汚れたカラスを、最も立場の低いやもめを用いられたように、あなたをも用いられるのです。 あなたのために命をささげて私たちの罪を赦し、魂を救い、復活によって永遠の命を与えられたイエス様はあなたをこの年豊かに用いられるのです。 イエス様はご自分がしようとしておられることをご存知です。私たちに何もなくても、不可能と感じても、可能性がゼロでも、イエス様はあなたのためにみ業をなして下さるのです。ですから、すべての事が感謝につながるのです。2016年、悲しいことも辛いこともあるでしょう。それら全てを感謝に変えて下さるのです。 このイエス様がこの1年あなたと共におられます。この週も、仕事や勉強が、新しい歩みが始まります。不足することもなくなることもあります。だめだとお手上げ状態になるでしょう。可能性を考えると絶望しかないということもあるでしょう。それは人間の法則しか考えていないからです。神様の法則は、不可能を可能にすることです。この1年も神様の法則に期待して歩んでまいりましょう。大丈夫、私があなたと共いる。イエス様はそう言っていつも共におられますから、何でもイエス様に委ねてお話しして、この週も歩んでまいりましょう。 |
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