![]() 日曜礼拝(2015年11月1日) 召天者記念礼拝(三位一体後第22) 2015.11.1 「天国で会いましょう」 ルカ23:32〜43 T導入部 おはようございます。11月の第一日曜日を迎えました。三週間のご無沙汰です。私の顔をお忘れになった方々はおられないでしょうか。江上牧師は、そうだこんな顔だったんだ、と思っておられる方がおられるかも知れません。この三週間の間に、初めて礼拝に来られて、今日おいでになった方々は、私とは初めての対面だと思います。野球の阪神タイガースというチームは、甲子園が本拠地ですが、夏は甲子園で高校野球がありますので、本拠地の甲子園では、試合ができません。アウェイの敵の地での試合が長く続くわけです。 それほどのことではありませんが、私も3週間連続で教会の礼拝を開けたことは初めてだと思います。満山浩之神学生、岩淵兄、満山リベカ神学生がメッセージを語って下さいました。どのメッセージも、準備の整えられた素晴らしいメッセージでした。皆さんも、み言葉で豊かに養われたことだと思います。 今日は、久しぶりに愛する皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝いたします。そろそろ江上牧師のお話しが聞きたくなった、と思われる方がおられたら感謝です。 今日は召天者記念礼拝です。イエス様の十字架と復活を信じて、罪の赦しと魂の救い、永遠の命の恵みを持って先に天に召された方々を覚えると共に、私たちも同じ信仰、罪の赦しと、魂の救い、永遠の命の恵みを持つことができ、やがて天において、先に召された愛する兄弟姉妹と会うことができるのです。 先に召された方々は、家族の救い、愛する者の救いを誰よりも強く感じておられます。そのことを覚えながら、礼拝をささげたいと思うのです。 昨日は、10月31日でした。キリスト教会では、宗教改革記念日です。腐敗したローマカトリック教会に対して、1517年10月31日に、マルチン・ルーテルがビッテンベルグ城教会の扉に、95箇条の提題を貼り、宗教改革が行われ「信仰のみ、聖書のみ、万人祭司」が主張されました。こうして、プロテスタント教会が誕生したのです。 最近では、宗教改革記念日というよりも、ハロウインの方が有名ですね。渋谷の街に多くの人々が、いろいろな仮想をして集まっている姿がテレビのニュースで見ることがあります。ハロウィンとは、古代ケルト人が起源と考えられる祭のこと。もともとは、秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事のことで、キリスト教会とは、関係がありませんので、みなさん知っておいていただきたいと思います。キリスト教会では、11月のおわりに、収穫感謝記念の礼拝が行われます。 さて今日は、「天国で会いましょう」という題で、ルカによる福音書23章32節から43節からお話しさせていただきたいと思います。 U本論部 一、あなたのためのイエス様の祈り この箇所はイエス様の十字架の箇所です。聖書が示す救いの根拠は、イエス様の身代わりの十字架でした。イエス様は、二人の犯罪人と共に十字架につけられました。それはイエス様が犯罪人の一人として数えられることと見世物にして、人々にローマ帝国に逆らうことの恐怖を受け付けることでした。イスラエルでは、十字架につけられることは呪いの宣告を意味しました。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われる」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)と記されています。 十字架の上でイエス様は祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 パウロという人は、「わたしは自分のしていることがわかりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ローマ7:15)と言い、それが自分の中にある罪だと指摘しています。イエス様が、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と自分を十字架につけた人々のために祈られました。自分が何しているのかわからない。つまり、罪の中にある者たちのために罪の赦しを祈られたのです。 イエス様の十字架は、私たちの罪の赦しです。過去にどのような罪を犯していても、今、どのような罪を犯し続けていても、未来、どのような罪を犯そうとも、イエス様の十字架は、その罪の赦しを宣言しているのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と、あなたのために祈られたのです。 二、イエス様の苦しみは私のため 十字架刑の周りにいた人々は、イエス様に向かって同じ言葉を語っています。35節では、議員たち、つまり律法学者やファリサイ派の人々は、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と言いました。 36節では、兵士たちが、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」と言いました。 39節には、十字架につけられた犯罪人の一人が、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と言いました。 このように自分を救え、と口をそろえて十字架刑を見ていた人々は言いました。このように語り、侮辱する人々のために、イエス様は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られたのです。 イエス様は、多くの人々の病を癒し、奇跡を起こし、死人さえよみがえらせました。神の圧倒的な力を見せつけてきました。それなのにイエス様は捕えられて十字架刑にされている。本当の救い主なら、メシアなら、ユダヤ人の王なら、自分を救え、と人々は叫びました。「議員たちも、あざ笑って言った。」とか兵士たちが「侮辱して」とあるように、人々は、イエス様の力ない姿に、弱弱しい姿に、十字架に磔(はりつけ)にされたイエス様の姿に、傷口に塩を塗るように攻撃したのです。バカにしたのです。笑いものにしたのです。 父なる神様は、そのようなイエス様を助けることができました。イエス様ご自身も、ご自分の力で十字架からおりることができました。けれども、旧約聖書が一貫して記しているように、イエス様は全人類の罪の身代わりに十字架について死ぬ、という預言の言葉を成就されるために、父なる神様の人間に対する唯一の救いの方法は、ご自分の十字架での裁きと死にあることをイエス様はご存じであり、自らの使命であることを肝に銘じておられたのです。そして、この十字架での数々の侮辱を受け入れられたのは、私たちの為であったのです 三、あなたは確実に天国に行けます イエス様の周りにいる人々は、口をそろえて、「自分を救うがよい。」、「自分を救ってみろ。」、「自分自身と我々を救ってみろ。」と言いました。しかし、一人だけは違いました。 40節を共に読みましょう。「すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。」」 イエス様と同じ刑を受けていた一人は、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と言いましたが、それを聞いていたもう一人は、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。」言いました。彼は続けて、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない。」と言ったのです。 イエス様のそば近くで、同じ十字架刑を受けていた二人は、イエス様に対して、どうして違う態度を取ったのでしょうか。同じ環境で、同じ立場、同じ境遇で、彼らは正反対の言葉を語ったのです。しかし、実は、「この方は何も悪いことはしていない。」と言った犯罪人は、最初、もう一人と同じように、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」のように、イエス様を侮辱していたことが聖書に記されています。聖書は、「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」(マタイ27:44)と記しています。 ですから、最初は犯罪人の二人ともイエス様をののしっていたのです。では、そのどこから考えがかわったのでしょうか。それは、やはり「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈りだと思います。自分を十字架刑にした人々、自分にむかってあざける人々に対して、その人々の言葉を弁護士、彼らのために祈るその姿に、この犯罪人は、自分自身の罪を認め、イエス様が自分と同じような犯罪人ではないお方であること、神であることを認めたのです。そこから、この犯罪人は変わったのだと思うのです。 先ほどまでは、イエス様をののしり続けた犯罪人でした。ですから、私を救って下さいとは、口が裂けても言えませんでした。ですから、42節の表現になったと思うのです。 皆さんと共に42節を共に読みましょう。「そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。」 詳訳聖書には、「主よ、あなたが王としての栄光をもっておいでになるとき私を思い出してください。」とあります。「わたしを思い出してください」とは、自分が救いに値する人間だから思い出して下さいと言うのではないのです。自分は救われるような、赦していただけるような者ではありませんが、こんな者がいたことを覚えて、思い出して下さいとどこまでも、自分の何かではなくて、イエス様ご自身にすがったのです。 自分は救われるような人間、赦していただけるような人間ではないと思いながらの発言、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という犯罪人の言葉にイエス様は即答しました。43節を共に読みましょう。「するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。」 王としての栄光を持ってくる、いつかではなく、未来ではなく、「今日」と言われたのです。死後に、今まで自分が犯した悪事の数々を清算してから、償ってからというのではなく、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されたのです。詳訳聖書では、「真実に私はあなたに告げる。きょう、あなたは私といっしょにパラダイスにいる」とあります。何という慰めに満ちた言葉でしょうか。この言葉は、今日ここにいる全ての人々に、あなたに向けられて語られた言葉なのです。そのことを覚えてほしいのです。 V結論部 今日は召天者記念日です。愛する人々は、先に召されて行きました。その最後に瞬間、それがどのような形であれ、イエス様は、召された人々に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と語られたはずです。神様に背を向け、神様の顔に泥を塗るような人生であったとしても、自分の事しか考えない自己中心な人生であっても、神様に覚えていただけるような人生でなかったとしても、イエス様は確かに、真実に語られるのです。「真実に私はあなたに告げる。きょう、あなたは私といっしょにパラダイスにいる」と。なぜなら、イエス様は私たちの罪のために十字架にかかって下さったからです。私たちの魂を救い、罪を赦し、永遠の命を与えるために、十字架で裁かれ、死んで葬られ、三日目によみがえられたのです。ですから、先に召された方々も、私たちもイエス様と共に天国に導かれるという約束がここにあるのです。だからこそ、私たちはお互いに、あるいは先に召された人々に、「天国で会いましょう」と言えるのです。 私たちは、先に召された人々と天国で会えるのです。それが、イエス様の約束だからです。そのことを覚えながら、この週もイエス様の約束を握りしめて歩ませていただきたいと思うのです。 |
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