日曜礼拝(2015年8月2日)
日曜礼拝(2015年8月2日)
日曜礼拝(三位一体後第九)       2015.8.2

「愛による抵抗」 マタイ5:38〜48

 T導入部
 上芦別教会の愛する皆さん、おはようございます。8月の第一日曜日を迎えました。毎日暑い日が続いておりますが、いかがでしょうか。暑い、暑いの言葉が挨拶の言葉となり、一日に何度も口から出てきます。8月はさらに暑さが増すように思いますが、この暑さの中にも神様の守りと導きがあることを覚えながら、毎日感謝の日々を送りたいと思います。
 今日も大変な暑さの中ではありますが、健康が支えられ、イエス様の体なる教会に集められ、愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。
 今日は平和主日の礼拝として礼拝を守っています。8月は平和を思う季節です。私たち日本人は、この8月を迎えて平和を思わない日はありません。テレビ等でも、戦争の映画やドラマ、あるいは歴史的に戦争を見つめ、戦争にまつわるエピソードなどの話しを紹介しています。
 今日は、マタイによる福音書5章38節から48節を通して、「愛による抵抗」と題してお話したいと思います。
 
 U本論部
 一、踏み外した元の場所に帰る
 私は、求道中の方々に「聖書とは」という小冊子を通して、人の罪、神様の愛、罪の赦しと永遠の命についてのお話をします。青葉台教会において、私と個人的にお話をされた方は、まず、「聖書とは」を通して導きをさせていただきましたので、覚えておられると思います。
 その「聖書とは」の中で、一番大切な箇所である罪の赦し、イエス様の十字架のお話をする箇所があり、人間の罪に関して示された場所があります。それは、人が有意義で幸せな人生と感じることは、お金があること、楽しみがあること、友人が多くいること、人よりすぐれていることを考えるけれども、これらのものを持っていても、なおもむなしい気持ちで、幸せでない人生を送っている人々は多くいる。なぜかというと、それは幸せの土台が違うと聖書は語っているのです。
 私たち人間は大小さまざまな罪を犯します。罪を犯さない人間、失敗しない人は存在しません。聖書が語る人間の最大の罪は、私たちを創造された神様に対する無関心です。旧約聖書の創世記には、神様がアダムを創造し、エバを創造する記事があります。神様によって創造された人間は、神様を心の中心において、神様と顔と顔を合わせて生きる者でした。けれども、神様が与えられたご命令を破り、神様よりも自分の思いを優先させた人間は罪を犯しました。神様ではなく、自分自身を心の王座に置いたのです。ですから、人間は、神様に聞いて、神様に従って生きるのではなくて、自分の考えや思いに従って行動し始めたのです。
 するとどうなるかと言うと、自分が中心となります。自分の利益だけを追求するようになるので、自分の行動が、自分の言葉が一番だと考えるようになり、自己を主張して譲らなくなります。すると人間は、どちらも自分が一番を主張するので、対立が起こります。対立が起こり自分の思い通りに行かないと怒りが、ねたみが、憎しみが起こります。そして、人を欺き、争い、殺人にまで及び、人と人との間で、グループの間で、国と国との間で争いとなり、その結果はお互いに悲惨な結果を及ぼすのです。戦争の歴史を見れば一目瞭然です。
 勿論、私たちは戦争反対です。戦争反対の意思を示し、反戦運動も必要でしょう。
 私たちは反戦を訴えることと同時に、国と国、民族と民族が争うようになった最初、そこに目を留め、そこから改めていくべきことだと思うのです。それは、神様への無関心です。
神様よりも自分を優先する、自己中心的な生き方を考え、そのように道を外れた者、外れ続けている者に、変わらずに愛を注いでおられる神様に目を向けることなのです。

 二、目には目、歯には歯ではすまない人間
 先ほど、お話したように私たち人間は、自己中心ですから、自分が第一ですから、すぐに怒りや対立が生まれます。38節にあるように、「目には目を、歯には歯を」という言葉は、人間の止まることを知らない人間の抑止力となる言葉です。私たちは、目をやられたから目だけで済ますことはできないのです。相手を徹底的に打ち負かさないと気が済まないのです。よく映画やドラマで、ちょっと肩がぶつかったとか、足を踏んづけられたと言って、腹が立って徹底的に相手を打ちのめす、殺すということがありますが、これは映画やドラマだけの世界ではなく、私たちの身近にある現実のお話です。
 ですから、目には目だけですよ。歯に歯だけですよ、と教えています。1やられたら1だけですと人間の自己中心性、怒りを戒めているように思います。制限付きの復讐です。
 43節に、「隣人を愛し、敵を憎め」とあります。旧約聖書には、「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ記19:18)という言葉があります。隣人を愛せよとはあっても敵を憎めとはない。けれどもユダヤ人たちは、自分たちの隣人は、ユダヤ人だけだと決めつけ、異邦人に対しては適用していませんでした。
 ですから、神の言葉以外の多くの掟をつくり、その掟の中に「隣人、つまりユダヤ人を愛し、敵、つまり異邦人を憎め」と作成したのです。神様のお言葉を自分勝手に書き換えた。付け加えたのでした。そして、隣人を愛するという神様の掟、教えよりも自分たちが作成した「隣人を愛し、敵を憎め」という戒めを忠実に守ったのです。イエス様が命じられていると言われた教えは、ユダヤ人が付け加えた、このことだと思われます。
 そのように生きてきたユダヤ人たちに、イエス様は語られたのです。44節を共に読みましょう。「しかし、わたしは言っておく。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」」 ルカによる福音書を見ると、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ6:27-28)とあります。
 「目には目、歯には歯」とは、人間の自己中心性のゆえに、怒りと憎しみが、「倍がえしだ」という言葉がはやったように、とどまらない衝動に対して抑止力的な言葉、警告の言葉でありましたが、イエス様は、その教えを遥かに超える教え、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と語られたのです。
 なぜ、このような私たち人間にできないような事を語られたのか。その理由は、次に書いてあります。45節です。共に読みましょう。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」 これにはどのような意味があるのでしょうか。

 三、愛することが人としての使命
 私たちは、自分の家族や仲のいい友人たちを、愛することは簡単でしょう。努力することなく、愛せます。私たち人間の愛というのは、自分の好きな人だけ愛するという偏愛です。偏った愛です。ここでいう愛するの、愛は、男女の愛(エロス)や親子の愛(ストルゲー)、友情(フィリア)とは違います。神の愛、アガペーの愛を指しています。「敵を愛し」の愛は、私たち人間の偏愛、自分の好きな人だけ愛するという愛では不可能なのです。好きというのは気分的な感情ですが、愛は意志なのです。神様の愛、十字架の愛は、常識を超えた愛、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」愛なのです。
 「あなたがたの天の父の子となるためである。」というのは、敵を愛する愛、それが天の父の子の証明とでも言ったらいいでしょうか。ユダヤ人たちは、自分たちこそ、父なる神に愛され、特別に選ばれた民であり、神の子であると自認していました。だからこそ、律法を忠実に守り、辛い断食も行い、多くの献げものをもしました。そして、自分たちの作った掟、「隣人を愛し、敵を憎め」を守ったのです。
 けれども、イエス様は、父なる神様は、ユダヤ人たちが、嫌い、見下す異邦人と言われる人にも、ユダヤ人にも、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さる。神様の愛は、どのような人にも注がれていることを語りました。そして、敵を憎めと異邦人を憎んでいたユダヤ人たちに、自分たちが敵だ、迫害者だと思っている人々を愛すること、これすなわち、神のお心であることを示されたのです。
 最後の48節には、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」とあります。完全というのは、パーフェクトという意味よりも、物に例えると、それが計画され、設計され、作成された目的を十分に果たされる時、その物は完全だと言えるのです。私たち人間が、神様によって創造された目的はなんでしょうか。
神様のかたちに創造された私たち人間は、愛するということにおいて完全とされるのです。
 私たち不完全な、罪を犯し、神様に見捨てられても当然の者を愛するがゆえに、イエス様を人間の世界に送り、私たちの罪を赦し、魂を救うためにイエス様が身代わりに十字架にかかり、父なる神様に裁かれ、苦しみ、尊い血を流し、私たちに命をささげて下さったのです。
死んで三日目蘇りに神であることを証明し、信じる者に永遠の命を与えて下さるのです。
 このような愛で愛されている私たちは、人を愛することにおいて完全とされるのです。

 V結論部
 私たちは、人生においてクリスチャンであっても、苦しみや悲しみを経験します。人から悪口を言われたり、非難されたりもします。そのような時、私たちは、沈黙で抵抗しますか。無視で抵抗しますか。より強い口調で言葉をもって攻撃しますか。暴力で抵抗しますか。
 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」とイエス様は言われました。テレビのコントなどで笑いにされている内容です。右の頬をやられたら、左を出すどころか、相手の左右の頬を、何倍と言う力で打つというのが私たちの世界です。やられたらやり返す。悪口には悪口で、批判には批判で、暴力には暴力で抵抗するのです。無抵抗主義がありますが、イエス様が語られたのは無抵抗主義ではありません。何もしない抵抗ではなくて、愛で抵抗するのです。愛することで答えるのです。
 私たちの信じる神様は、敵とか味方に区別なく、全ての人を愛しておられるのです。罪を犯し続けている私たち、家族や友人を愛せない私たち、人を憎む心や疑う心を持つ、私たちを神様は愛していて下さるのです。真面目でなくても、正しくなくても、あなたを愛し続けていて下さるのです。このような愛で愛されているのですから、私たちも、人から投げかけられる悪口や中傷、無視、攻撃や暴力に対して愛で抵抗しませんか。愛してみませんか。あなたを攻撃するその人のためにも、イエス様は十字架にかかり、その人のためにも血を流し、命をささげて下さったのです。あなたから始めましょう。愛する抵抗運動。きっと、あなたも、周りも神様の恵みで、何かが変わっていくのだと信じます。
 この週もイエス様があなたと共におられます。大丈夫、あなたにもできる。愛による抵抗今日から始めてみましょう。
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