![]() 日曜礼拝()2015年8月9日 日曜礼拝(三位一体後第十) 2015.8.9 「剣を取る者は皆剣で滅びる」 マタイ26:47〜56 T導入部 上芦別教会の愛する皆さん、おはようございます。8月の第二日曜日を迎えました。暑い日々が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。それぞれに暑さ対策をしておられることと思います。北海道でも、33度、34度という温度ですから、日本全国暑さの中にあります。そのような暑さの中にあっても、こうして愛する皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝いたします。皆さん、本当に暑い中、礼拝においで下さり感謝です。神様の満ち溢れる恵みと祝福が、皆さんの上にありますようにお祈り致します。 今日は、8月9日長崎に原爆が落とされた日です。6日は広島に原爆が落とされた日です。戦後70年、原爆が落とされて70年の月日を迎えました。多くの人々が苦しみ、今も苦しみの中にあります。体だけでなく、心にも、精神的にも大きな痛みを持ち続けながら生きて来られました。二度と戦争を起こしてはならないと強く思わされています。 今日は、日本ナザレン教団の多くの教会が平和聖日の礼拝を守っています。私たちの青葉台教会では、先週平和聖日の礼拝を守りましたが、今日も平和を思いながらの礼拝とさせていただきたいと思います。今日は、マタイによる福音書26章47節から56節を通して、「剣を取る者は剣で滅びる」というイエス様のお言葉ですが、その題でお話ししたいと思います。 U本論部 一、親しい仲に裏切りあり 今日の聖書の箇所は、12弟子の一人であるイスカリオテのユダがイエス様を裏切る場面です。裏切りとは、映画やテレビドラマにはよくある話です。私たちの日常生活、会社や学校においても裏切りなるものがあるかも知れません。 裏切りとは、「約束や同盟関係を捨て相手に寝返る等の行為や、想像とは違った、もしくは期待はずれな事象に対し用いられる言葉。裏切り行為は、老若男女・古今東西を問わず最も怒りをかきたてるものとして知られる。刑法においても、あらゆる国家において国家への裏切りは最高刑かそれに準ずる刑を課される。」とあります。裏切りは、仲の良い関係において、裏切った方も裏切られた方も、大きな痛手を受けることになります。 ユダは、イエス様の祈りによって12弟子の一人として選ばれました。ルカによる福音書6章12節、13節には、「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈っておられた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた。」とあります。 このようにしてユダはイエス様の弟子として、祈られ選ばれたのでした。会計係を任されるほどイエス様から信頼されていた人物でした。けれども、彼はイエス様を銀貨30枚で裏切るのです。3年と少しの間、寝食を共にし、深い交わりと関係を結んできた。イエス様のそばで権威あるお言葉を聞き、その言葉に感動し、イエス様のなされる数々の奇蹟に胸踊らされ、イエス様の弟子であることを誇りに思っていたことでしょう。イエス様のお話を聞くことを喜びとし、もっとお聞きしたいと願い、イエス様の弟子としていつまでも従いたいと願っていたはずなのです。 それなのに、ユダは裏切るのです。ユダの思いや考えと、イエス様の生き方には食い違いがあったのでしょう。ユダはエリートでしたから、イエス様が国を動かすほどの偉い人々とかかわり、ローマの支配からイスラエルを解放して下さると信じていたでしょう。けれども、イエス様はいつも、貧しい人々、弱い人々、この世から捨てられたような人の所ばかりに足を運び、彼らを励まし助けたのでした。そのことがユダには我慢ならないことだったのかも知れません。何故ユダがイエス様を裏切ったのか、聖書には書いてありませんが、会計の責任から自分がごまかしていたことが影響しているのかも知れません。 ユダはイエス様を裏切るために、祭司長や民の長老たちから送られた大勢の群衆と共にイエス様のおられる場所にやって来たのです。 二、人間は力で解決できると思いこんでいる 48節を共に読みましょう。「イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。」 裏切りの合図が接吻でした。接吻、キスは、私たち日本人はあまり馴染んでいません。アメリカやヨーロッパでは、挨拶でかわすものです。親愛の情を現す動作です。その親愛を現す動作、接吻を裏切りの合図としてユダは選んだのです。 本来は、愛する者にすべきその表現を裏切りに使いました。それは、私たちの人間の世界に、そのような悲劇は存在するのだと思います。そして、この裏切りを通して、人と人は 怒りや憎しみが増して関係が崩れてしまうのです。 イエス様とユダの関係はどうだったでしょうか。49節には「ユダはすぐにイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言ってすぐに接吻した。」とあります。詳訳聖書という聖書には、「偽りの、熱烈な口づけをした。」とあります。リビングバイブルには、「さも親しげにイエスを抱きしめました」とあります。 ユダの偽りの姿が表現されています。そのようなユダの偽りの姿に対してイエス様は、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われたのです。大勢の人々がこん棒や剣を手に押しかけてきました。 イエスにとって、ユダが群衆と共に何を自分にしようとしているのか理解できたでしょう。暴力的な行動に対してイエス様は、ユダに対して「友よ」と語られました。自分を裏切る張本人、多くの人々を連れて来て暴力で対抗しようとするユダに友よと語られました。 ユダがイエス様に接吻した瞬間に、人々はイエスを捕えたのです。その時、イエス様と共にいた者の一人が剣を抜いて大祭司の手下に打ちかかり片方の耳を切り落としたのです。 ヨハネによる福音書では、「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。」(ヨハネ18:10)とあります。 イエス様を捕えようとした者を剣で対抗しようとしました。相手がこん棒や剣を持ってイエス様を捕えようとしたので、ペトロも剣を持っていたので、その剣で対抗しようとしたのです。 力には、力で、剣には剣で、武器には武器でというのが、私たち人間の世界で考え行動するのです。しかし、イエス様は違ったのです。 三、神はご自分を力ではなく愛で示される 52節を共に読みましょう。「そこでイエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆剣で滅びる。」」リビングバイブルには、「剣をさやに納めなさい。剣を使う者は、自分もまた剣で殺されるのだ。」とあります。 ペトロは、力に対しては力で、剣に対しては剣で対抗しようとしました。「目には目を。歯には歯を」で、剣には剣で正当に見えます。相手が先に手を出したのだから、正当防衛を主張することもできるでしょう。しかし、イエス様は、剣に対して剣で対抗しませんでした。 対抗できないからではありません。この後にイエス様は、天の父に十二軍団以上の天使をお願いすればすぐにでも送って下さり、こん棒や剣を持って対抗しようとする群衆を蹴散らすことはできました。けれども、イエス様の使命は、神様のお心は、力で成敗することではなくて、神の子であるイエス様が、神様として力で、神の存在を示すというのではなくて、全人類の罪の身代わりに十字架にかかり、神様からの裁きを受け、十字架の上で尊い血を流し、罪ある人間の代わりに命を捨てることだったのです。旧約聖書は、そのことを預言しているのです。今、ここで力で対抗したら聖書の言葉が実現されない。神様のみ心が示されないのです。 神様は全知全能なるお方ですから、人間なんて屁(へ)のかっぱです。神様は地に住む者をいなごのように見られる、と聖書は語ります。私たち人間が、こん棒や剣を手にして向かって来ても神様には到底対抗なんて無理、無駄なのです。もし、神様が人間のように力や剣で応戦されたら、私たち人間はひとたまりもありません。 けれども、神様は、ご自身を力や勢いで現すのではなくて、イエス・キリスト様の十字架の死、つまり神様は愛を持ってご自分を示されたのです。私たちは、力や剣で対抗します。けれども、神様は愛で答えられるのです。 私たちは人間は、力や数で解決できると思っています。ペトロもそうでした。しかし、マルコスの耳を切り落とした。マルコスも、その家族や知人は、ペトロに報復しようとするでしょう。ペトロがやられたら、今度はペトロの関係者が、マルコスの関係者に復讐するという復讐の連鎖、憎しみの連鎖が生まれるのです。まさしく、「剣を取る者は皆剣で滅びる」のです。だから、イエス様は、神であり、権威をお持ちであり、力あるお方なのに、その権威や力を主張したり、それを使ったりするのではなくて、全人類の憎しみや復讐、裏切り、その全ての罪の身代わりに十字架にかかり、その罪を、死を持って解決されたのです。そして、この十字架で現された神様の愛こそが、本当に人間に平和と赦しを与えることをお示しになったのです。そのことを私たちは、忘れてはならないのです。 V結論部 アメリカは銃社会で、自分の身は自分で守ると各自が銃を持っているわけですが、そのことによって多くの命が犠牲になっていることも事実です。私たち人間は、歴史において、辛い経験をしました。戦争において、どちらが正しいか正しくないのか、とよく言われますが、戦争そのものに正しい正しくないというよりも、戦争そのものを始めてはならない。起こしてはならないのです。国を守るためというのが、よく語られますが、国民を守るためとはあまり語られないように思います。 私たちは、国や組織を守るためではなくて、人を守る、人を愛することを最優先していくことが大切なことだと思うのです。そして、誰よりも人を愛されたのがイエス様なのです。 私たち全人類の憎しみ恨みや、裏切りや攻撃の根本、罪のゆえに私たちの身代わりに十字架で死んで下さったイエスの愛、神様の愛こそが私たち人間を大切にするものだと思うのです。 創世記9章6節には、「人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」リビングバイブルには、「人殺しは、神に似せて造られた者を殺すことだから。」とあります。これが、人を殺してはならない正当な理由だと思うのです。 私たちは、力や剣に対して聖書の言葉を大切にし、愛を持って答えられたように、私たちもイエス様の愛をいただいて、その恵みに生きる者でありたいと思うのです。 |
<<prev 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 next>> |