日曜礼拝(2016年1月31日)
日曜礼拝(2016年1月31日)
         メッセージ 『感謝・感激・雨・霰』

 おはようございます。今日は、江上牧師が礼拝奉仕で、北海道の上芦別教会へ行かれているので、大変未熟ではありますが、神学生の私、満山浩之がメッセージを取り次がせて頂きます。

 先ほど皆さんで主の祈りをお祈りしましたが、今日はイエス様が私たちに教えて下さった、その「主の祈り」の中の1節、「わたしたちの必要な糧を毎日与えてください」という祈りに注目してみたいと思います。

 私たちが先ほどお祈りした主の祈りには、「文語訳」が使われていますが、「主の祈り」は聖書のマタイによる福音書と、ルカによる福音書に記されています。今日はそのうちの、ルカによる福音書を見てみましょう。「わたしたちの必要な糧を毎日与えてください。」ここに『必要な糧』とありますが、原文の古代ギリシャ語で『必要な』を『ἐπιούσιον』(エピウーシオン)。『糧』を『ἄρτον』(アルトン)という単語で形成されています。この『ἐπιούσιον』(エピウーシオン)という単語の意味がいくつかあるので、『日用の』と訳されたり、『必要な』と訳されたりします。新共同訳では、『必要な』が使われていて、これは『どうしても必要な』という意味もあるので、「私たちが生きるために、どうしても必要な糧を毎日与えてください」という意味になってきます。
 次に『ἄρτον』(アルトン)、『糧』という言葉ですが、これは当時の主食でもあるパンを意味します。日本にいる私たちに置き換えてみますと、ご飯やパンになると思います。「私たちが生きるために、必要なご飯やパンを毎日与えてください」と捉えて良いと思います。食べ物を食べなければ、私たちは死んでしまいます。ですから「神様に求めなさい」とイエス様は私たちに教えて下さったのです。改めて考えてみますと、私たちの生きる上で、食べることは最も重要なことの1つと言えるでしょう。特に家庭の主婦であれば、朝、昼、夜、と三回の食事のために毎日あれこれ頭を悩まして、買い物に出掛けて、料理をして、食べて、そして後片付けをします。せっかく時間を掛けて作った料理も食べるのは「あっ」という間ですよね。そして、また次の食事のことを考えなければなりません。毎日同じことの繰り返しで、時には「ハァ〜」と、ため息が出る事があるかもしれません。でも、三回の食事のために頭を悩ますことは、決して些細な事ではなくて、神様が私たちを生かして下さるのに必要な、重要なことなのです。

 わたし自身20歳くらいの時に、喉の奥が、(扁桃腺のもっと奥が)、急に腫れてしまって唾を飲み込むだけでも痛くて、1週間ほど入院して点滴だけで、過ごしていた事がありました。1週間も何一つ食べる事が出来なかったので、それが治った後、食べ物が食べられるという有難さを、しみじみと実感したのです。
 このお祈りの中で、良くみてみますと「わたしに必要な糧を毎日与えてください」とは言っていません。あくまでも「わたし」ではなくて、「わたしたち」なのです。自分一人の糧ではなくて、自分の家族、友人、そして自分の隣にいる人、そしてさらに、世界の貧しい国の人々にも与えてください、という祈りなのです。
 
 日本は昔戦争がありました。昨年は戦後70年目の節目の年でした。今日来られている方々の中には、戦時中や戦後の、食糧難の時代を経験している方もいらっしゃると思います。私も高齢者の介護の仕事をしていた時に、高齢者の方々から、毎日のように、そのお話を聞かせて頂いていました。あの時代、その日の食べる物を確保することが、毎日の大仕事、それこそ、命がけだったそうです。
 でも、時代は流れて、今日では食べ物を簡単に残せる、捨ててしまう状況があります。いつの間にか、毎日食べられるということが当たり前になり、「感謝する」、という思いさえ、薄れてきているように思います。同じ時代を生きていても、国や地域によっては、貧困や戦争や難民生活のため、十分な食べ物がなく、飢えている人が大勢いるのです。こういう今の時代だからこそ、日々の食べ物を大切にし、食べられることに、感謝をしていかなければならないのです。
 
 旧約聖書の出エジプト記16章には、イスラエルの民が、奴隷生活を強いられていたエジプトから、モーセに率いられて脱出し、約束の地へ向かう物語が記されています。注目して頂きたいのは、荒野を旅していくイスラエルの民のために、神様が日々与えて下さった、天からの食べ物である、「マナ」です。マナは毎日与えられ、人々はその日の分だけのマナを集めて食べるのです。明日や明後日の分まで、集めて取っておいたものは、腐って食べることが出来ませんでした。それは単に、マナの日持ちが悪かったという事ではなくて、金曜日には、翌日の安息日の分まで二日分を集めるように、神様から命じられており、金曜日に集めたものだけは、翌日も腐らずマナを食べることが出来たのです。当時のイスラエルの民は、土曜日が安息日で、何もしてはいけないという掟がありました。この出エジプトという、エジプトから脱出する出来事がきっかけとなって、シナイ山において、神と民との間に契約が結ばれ、神の民が誕生したのです。この荒野でのイスラエル民族の旅は40年も続いたわけですが、その40年もの間、神の民であるイスラエルの民は、マナという不思議な食べ物によって、養われ続けたのです。彼らが旅をしたのは、岩だらけ、石だらけの厳しい荒野でした。旅をしているので定住は出来ず、畑も作れないし、木の実や果物だってありません。そういう過酷な環境である荒野を40年も旅をして、その間、神様はマナという食べ物をもって彼らを養い続けられました。それは毎日その日その日を、神様から与えられる糧によって生きる、ということを、イスラエルの民に教えるための、神様による訓練であり、教育だったのです。一日一日、その日の糧を神様から与えられて、それによって養われて生きるのです。私たち人間は、自分が持っている持ち物や、お金、また自分の力に頼って、安心を得ようとしてしまいがちです。でも、そうではなくて、毎日新たに神様から糧を頂いて、その日その日を感謝して生きるのです。

 旧約聖書の箴言30章7~9節にこうあります。
「二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしたちのために定められたパンで、わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません。」
 満たされていれば、傲慢になり、自分の力で生きているように錯覚してしまい、神様なんか必要じゃないと言い、貧しければ盗みを働いてしまい、神様の名を汚してしまう。それが私たち人間の本来の姿です。ですから「主の祈り」の「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」という祈りは、私たちがそのどちらにも陥ることなく、神様との良い関係を保って、神様が私たちのために定め、与えて下さる日々の糧によって養われて、神様に感謝することが大切なのです。
 私たちが陥りやすい間違いは、神様によって生かされているのではなくて、今持っているものはすべて、自分の努力や、自分が頑張って稼いで生きている、自分のおかげで生活できている、ということです。でも、神様は「そうではない、あなた方の命は私が養っている。」と言われています。神様を認めず、神様に感謝しないという私たちの傲慢の罪は、私たちが毎日食べている、その食べ物に対する、態度にも表れています。
 私たち人間は、食べ物を食べなければ、生きてはいけない存在です。食べ物が食べられないことで、罪を犯してしまう人間の弱さや悲しさに、神様が目を注いでおられるのが良く分かります。ですからイエス様は、日々の食べ物を求めて祈りなさいと、教えになるのです。
当たり前のことが、実は当たり前ではありません。その当たり前のことこそが、神様が私たちを養って下さっている表れであって、恵みであり、祝福であるのです。

 ドイツの神学者、宗教改革者でもあるマルティン・ルターは「この祈りは、パンのもとになる小麦を作る農家の人たち、パンを作る職人たち、パンを家庭に運ぶ流通機関で働く人たちなど、我々が生きて行くのに必要な多くの人たちのための祈りも含まれている。さらに、これらの人たちが安心して働くためには世界が平和でなくてはならない。だから、この祈りは真の世界の平和のために祈る、広くて深い祈りである。」と言っています。
 ご飯やパンを作っている人々は、健康でなくては働けません。ですから、この祈りの中には、働けるための健康をも与えて下さい、ということも含まれているのです。
 神様は私たち一人一人に、たくさんの恵みを与えて下さっています。神様は私たち一人一人に、命を与えて下さいました。私たちは皆、父や母を通して生まれましたが、私たちを創って下さったのは、この天地の創造者である、ただ一人の神様なのです。私たちは、母のお腹の中に存在する前に、神様によって創られました。神様は、まずどの時代、どの国のどの地域のどの両親の元に生まれさせるか。どんな顔にするか、髪の色は、目の色は、背の高さは、体型はどうするか、どんな性格にするか、どんな賜物を与えるか、すべてを計画して下さいました。
 賜物とは、英語では「ギフト」と言い、能力や才能、特技のことです。神様は一人一人に異なるたくさんの賜物を与えて下さいました。そして、一人一人にその人にしか出来ない、特別な使命を与えて下さり、期待を込めて、この地上に送って下さったのです。神様は私たち一人一人を心から愛して下さっています。その証拠に神様は、神様の独り子である、イエス様をこの世に送り、私たちの罪、人を悲しませたり、嘘をついたり、傲慢になること。また、自分を責めたり、傷つけたりする思い、そのような私たちの罪を全部背負い、罪からくる苦しみから救うために、十字架につけられ、身代わりとなり死んで下って、その3日後に復活されました。そしてイエス様を、自分の救い主として信じるものは、誰でも、罪がすべて赦されて、神の子とされて、永遠の命が頂けるという道を開いて下さったのです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である。」(ヨハネによる福音書3章16節)

 私たちがするべきことは、イエス様を信じて従う事です。神様は私たちの応答を待っています。常に神様は、私たちに恵みを与えて下さり、神様の素晴らしい計画の中を生きてほしいと、願っておられます。祈るということは、神様と会話をする、ということです。私たちは神様に、いつでもどこでも、自由に祈ることが出来ます。また、目には見えませんが、神様は聖書を通して、または誰か人を通して、私たち一人一人に、語って下さっています。
 
 今日の聖書箇所の「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」という御言葉は、毎日食べ物を与えてください、という願いと同時に、毎日私たちに必要な御言葉を与えてください、という意味でもあります。イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と教えて下さいました。私たち人間は、肉体だけでなく霊的な存在としても創られています。
 肉の糧として、食べ物が毎日必要なのと同じように、霊の、魂の糧として、私たちは、神様の御言葉によって、毎日養われる必要があるのです。肉の糧、食べ物だけ摂っていても、神の御言葉がなければ、霊的に弱って、力尽きてしまいます。霊の糧を毎日摂るということは、神様の言葉でもある聖書の言葉、御言葉をちょっとでも良いから毎日読むことです。
御言葉を毎日読んで、心に蓄えると、神様の知恵と力が与えられ、魂が生き返って、神様の愛と喜びと平安に満たされた日々を、送ることが出来るのです。

 今日の説教題は「感謝・感激・雨・霰」と致しました。私たちの周りにはすでに神様からの恵みがたくさん、雨・霰のように降り注いでいます。そのような、与えられている恵み一つ一つに、感激し、そして、雨・霰のように、絶え間なく恵みを降り注いで下さっている神様に、心から感謝しながら、今週も神様と共に歩んで参りましょう。
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