ン日曜礼拝(2015年11月22日)
ン日曜礼拝(2015年11月22日)
収穫感謝礼拝(三位一体後第25)  2015.11.22
      「何もしなくても影響力がある」 ヨハネ12:1、9〜11

 T導入部
 おはようございます。11月の第四日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主イエス様を賛美、礼拝できますことを感謝いたします。
先週、ローマ法王のお話しをした時、ベネディクト16世と言いましたが、間違いで現在は、フランシスコ法王でありましたので、訂正しておきます。もし、カトリックの方々がメッセージを聞いたり、原稿を見たりしないとも限りませんので、訂正しておいた方がいいと思いました。多くの方々は、そんな話したかなあと言うぐらいかも知れませんが、間違いでしたのでお話ししました。
 今日は、第二礼拝では教会学校の幼小科の子どもたちとの合同礼拝です、収穫感謝の礼拝となっています。
 さて、今日は「何もしなくても影響力がある」という題で、ヨハネによる福音書12章1節と9節から11節を通してお話ししたいと思います。

 U本論部
 一、イエス様はラザロを生き返らせた
 ヨハネによる福音書12章の前の11章には、ラザロが病気で死んでよみがえるという記事があります。イエス様は、ベタニアに住むマルタとマリア、ラザロの兄弟姉妹を愛し、よく訪問なさったようです。両親を亡くし、仲良く助け合って生きている彼らをイエス様は愛されました。その愛していた姉妹のラザロが病気であるとの知らせを受けても、イエス様はすぐにはラザロの元には行かれませんでした。なお二日間滞在され、ラザロの所に行ったのは、ラザロが墓に葬られて四日目だったのです。
 イエス様は、ラザロが死なれたことを知っておられましたが、弟子たちに次のような事を言っておられました。「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」(ヨハネ11:15)
 イエス様がベタニヤに来られた時、すなわち、ラザロが墓に葬られて4日目、マルタとマリアは同じようにイエス様に語りました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟はしななかったでしょうに。」(ヨハネ12:21.32)と。マルタとマリアは、ラザロが瀕死の状態の時、イエス様がラザロが病気であることを伝えました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」(ヨハネ12:3)と。リビングバイブルには、「先生、あなた様が目をかけてくださったラザロが思い病気にかかり、明日をも知れない状態です。」とあります。明日をも知れない状態なので早く来て下さい、ということでしょう。聖書には、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(ヨハネ12:5)とあります。その愛するラザロが明日をも知れぬ身であることを知りながらも、なお二日もそこに滞在され、ラザロは死んでしまったのです。だから、マルタもマリアも、あの時、ラザロが重い病気であることをお知らせした時、直ぐに来て下さり、ここにいて下さったならば、ラザロは死ななかった。でも、死んでしまいました、ということです。
 イエス様は、ラザロが重い病気であること、明日をも知れない状態であることを聞かれた時、弟子たちに言われました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(ヨハネ12:4)
 イエス様はラザロが死ぬことをご存じであり、死で終わらないことを宣言され、死んで墓に葬られて四日もたっているラザロをよみがえらされたのです。そして、マルタとマリア、ラザロの死を知って悲しんでいる人々に慰めと喜びを与えられたのです。
 マルタやマリアは、イエス様が死ぬ前に来て下さったらラザロは死ななかったと言いましたが、イエス様はラザロが死んで四日目に来られました。しかし、イエス様はラザロを生き返らせ、マルタとマリヤを喜ばせ、死ぬ前に来て癒した以上の喜びを与え、神様の栄光を与えられたのです。
 私たちは、自分の思いや考えでイエス様を指図しようとするところがありますが、イエス様は全ての事を最善になさるお方です。イエス様の力に信頼して、イエス様のなさることに全てを委ねていきたいと思うのです。

 二、そこにいるだけで力を発揮するラザロ
 11章では、ラザロは死んで、イエス様によみがえらされただけです。ラザロが何かをしたとか、語ったという言葉は何もありません。しかし、聖書は、「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」(ヨハネ12:45)と語ります。イエス様のなさったこと、つまり、死んだラザロを生き返らせたことを見た人々はイエス様を信じたのです。病気を治すよりも、死人を生き返らせる方がはるかにインパクトがあります。それで、多くのユダヤ人がイエス様を信じたのです。ですから、祭司長やファリサイ派の人々は、イエス様を殺そうとたくらんだのです。
 12章1節には、イエス様がベタニアに行かれた、とありますが、当然、マルタ、マリア、ラザロの家でした。1節の後半には、「そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。」とあります。ここでも、ラザロは、そこにいただけでした。
 3節からはマリアが高価な香油をイエス様の足に塗り、自分の髪の毛で足をぬぐったことが記されています。給料一年分の値打ちのする香油を全てイエス様にささげたのです。
その行為を、ユダや弟子たちは、もったいないと非難したのです。マリアがイエス様の足に香油をささげることを見た人々は、みんなもったいないと感じました。その香油があまりにも高価だったからです。けれども、マリアは、イエス様が死んだラザロをよみがえらせて下さったことに対して、おそらく、マルタとラザロとも協議したのでしょう。自分たちの家にある最も高価なものをイエス様にささげることにしたのです。それほどに、ラザロが死んでよみがえったことは、彼らの大きな喜びでした。イエス様のなして下さったことに対して、マリアとマルタ、ラザロは応答したのだと思うのです。
 マリアを非難するユダや弟子たちに、イエス様は、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」(ヨハネ12:7)とマリアを擁護されたのです。イエス様が、マリアとマルタ、ラザロの家にいるのを知って大群衆がやって来たと聖書は記しています。9節の後半には、「それはイエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。」とあります。
 当時のイエス様は、スーパースターですから、多くの人々はイエス様のお言葉を聞きたい。奇跡を見たいと願いイエス様を見るために多くの人々がイエス様のいるところに来ました。けれども、今回はイエス様だけではなく、イエス様によみがえらされたラザロをも見るために大群衆が集まったのです。ラザロは何も語らず、何もしていませんが、多くの群衆がラザロを見るために集まったのです。それほどに、影響力があったのです。

 三、あなたの存在に大きな意味がある
 皆さんと共に10節、11節を共に読みましょう。「祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。」 ラザロは何もいいません。「私はイエス様によって死んでいたのによみがえりました。」という証もしませんでした。自分から多くの人々の前に出て行って、「私がイエス様によって、死んでいたのに生き返ったラザロです。」という行動もしませんでした。ただ、イエス様が自分の家に来たときに同席していただけ。いや、病気で死んでただイエス様によみがえらされただけでした。自分の意思にかかわらず、ただイエス様の恵みによって生かされ、日々その恵みに立っていただけなのです。ラザロの存在そのものが証だったのです。
 そのラザロを多くの人々が見学に来た。神の栄光のしるしであったからです。それだけに、多くの人々に影響を与えたラザロだからこそ、イエス様だけではなく、ラザロさえも殺そうと祭司長たちは暗殺計画をしたのです。
 私たちは、イエス様の十字架の身代わりの死によって、神様の前に義とされました。イエス様が十字架で尊い血を流し、命をささげて下さった。私たちの身代わりに裁かれたからこそ、私たちの過去の犯してきた数々の罪、現在の犯し続けている罪、将来犯すであろう罪が赦されて、神の子とされ、イエス様が死んでよみがえられたので、私たちもよみがえりの命、死んでも生きる命、永遠の命、天国の望みが与えられたのです。
 私たちは神様のものなのです。私たちは何もしないけれども、罪赦されて新しくされ、神様と共に生きる者とされたのです。神様は私たち一人ひとりに、「あなたは高価で尊い」と言われるのです。尊い価値があるからそう言われるのではありません。頑張って高価であるというテストに合格したので、尊いと言われるのではありません。罪深くて、失敗ばかりで、何もできない私だけれども、神様の愛、十字架の愛、復活の命によって私たちは生かされ、あのラザロのように、存在そのものが尊いものであり、何もできない私が、イエス様の恵みと愛によって、影響力を与える者にされているのです。
 榎本保郎先生は、一日一章で次のように語っておららえます。「ラザロは演説をしたわけでもないし、また彼はひと言も語っていない。何も語らないラザロが多くの人をひきつけたのである。・・・教会の持つべき魅力はラザロが持っていた魅力である。死んで四日目に生き返るということである。人がどんなに考えてもそれはわからない。そういう神の力によって私が変えられ、命の世界に満たされることが魅力だと思う。そういう魅力を教会は持たねばならぬ。・・・ ラザロはただキリストの命に生かされたのである。それだけでおおぜいの人々がラザロを見に来たのである。そしてラザロを見ているだけではなく、そこからイエスを信じるに至った。私たちがキリストの命に生かされていくなら、人々は私たちを通して神を信じるようになる。」

 V結論部
 「世界で最も影響力のある人影響力のある100人」というランキングがあります。
2015年では、各国の大統領や大きな企業のCEOやプロスポーツで活躍した人、音楽の世界で活躍した人と、功績のある人たちばかりです。影響力のある働きをしたからです。
もし、何もしなくても影響力のある人100人だったら、ラザロもランキングされるかも知れません。
 私たちクリスチャンは、ラザロのように神様の恵みよって、救われ、神の子とされた者です。何かをしたからクリスチャンとなったのではありません。神の子にふさわしいから神の子とされたのでもありません。ふさわしくない者だけれども、神様の愛、イエス様の十字架の愛、復活の命によって、私たちは、私たちを通して神様の恵みを紹介することができるのです。私たちは、この週も、この恵みを携えて、私を通して人々に神様の愛と恵みを紹介することのできる影響力が与えられていることを信じて、家族に、愛する人に、友人に、ご近所の方々に、礼拝の案内やクリスマスの案内をして、私たちを通して神様の恵みを憐れみを紹介したいと思うのです。
 さあ、来週はもう、アドベント第一日曜です。世の中は11月の初めからクリマス色です。私たちも本腰を入れてクリスマスの準備をしたいと思うのです。私たちを救うために、神の位を捨てて、人の姿となって来て下さったイエス様の誕生、クリスマスを多くの人々と共にお祝いしたいと思うのです。
 この週もイエス様があなたと共におられます。イエス様があなたと共に歩んで下さいます。心配することなく、イエス様に全てをお委ねして歩んでまいりましょう。大丈夫、私があなたと共にいる。イエス様は、今週もあなたと共におられます。
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