日曜礼拝(2015年7月19日)
日曜礼拝(2015年7月19日)
       日曜礼拝(三位一体後第七)      2015.7.19

     「あなたが弱くても大丈夫」 列王記下5:1〜14

 T導入部
 上芦別教会の愛する兄弟姉妹おはようございます。7月の第三日曜日を迎えました。今日も皆さんと共に、私たちの救い主イエス・キリスト様に賛美と礼拝をささげることのできる恵みを感謝いたします。今日は7月の第三日曜日の礼拝ですから、第一礼拝では、中高生の皆さんと共に礼拝をささげています。中高生の皆さんは、夏休みに入られたことと思います。夏休みが充実した良き時となることをお祈りいたします。
 青葉台教会も、今日明日とサマーキャンプが、御殿場の時之栖というホテルで行われます。今年の参加者は、例年の半分ほどの人数ですが、それはそれで、きっと良き交わりがなされることだと思います。兵庫県の大久保からは、梶原修兄が参加して下さり、インドネシアのジャカルタからは、野村泰由兄が参加して下さいます。どうぞ、キャンプが祝福されますようにお祈りいただければ感謝です。
 さて、今日は旧約聖書の列王記下5章1節から14節を通して、「あなたが弱くても大丈夫」という題でお話したいと思います。
 私たちは、弱いこと、小さいこと、少ないことをあまりよく思いません。やはり、弱いよりも強いことを望み、小さいことよりも大きいことを期待し、少ないことよりも多いことを求めます。けれども、聖書を通して、神様は、少ないということも、恵みであること、小さいことも祝福であること、少なくても感謝できることを記しているように思うのです。

 U本論部
 一、環境に左右さることなく、ただ神様を信じる
 今日も、聖書に記された脇役に現れる神様に対する姿勢や信仰について見させていただきたいと思います。列王記下5章の最初には、「アラムの王の軍司令官ナアマン」という人物がまず登場します。この章は軍司令官ナアマン、ナアマン将軍の物語です。彼はアラムの王に用いられ、その果たすべき責任を十分に果たすことのできた優秀で、勇敢で、力ある人物でした。数々の武勇伝を築いてきたことでしょう。過去における彼の功績は、それは、それは大きいものでした。しかし、聖書を見ると、1節の後半には、「この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。」とあります。
 過去にどのような素晴らしい働きがあっても、現在の彼は病を患う弱い存在でした。現在は、治る見込みのない病のゆえに、絶望し、かつての働きからは遠ざかり、未来については希望もなく、将来を見ることはできませんでした。
私たちは、過去に生きていますか。過去の栄光、過去の信仰、過去の生き方、過去に目を向けない生き方は、将来をも見ることはできませんが、過去にのみ生きる人は、また将来をも見ることは困難だと思います。ナアマンは、今も過去に生き、現在の苦しみと切なさに生き、将来には希望を見出すことができなかったのです。
 2節を共に読みましょう。「アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。」
 イスラエルの少女は、捕虜としてアラムに連れて来られました。自分の国イスラエルから、愛する両親や家族から、友人たちから引き離されて、異国の地でナアマンの妻に仕えていたのです。この少女が、ナアマンの暗い人生に、一条の光を投げかけることになるのです。
 ナアマンには、財も、地位も、権力もありました。しかし、病に侵されていた。イスラエルの少女は、捕虜であり、従う者であり、自由を奪われた者であり、小さな、無名の力なき少女でした。しかし、彼女には信仰がありました。どのように環境が劣悪でも、どのようなひどい、つらい環境でも、どのような悲しい、辛いことを経験しようとも、共におられる神様、必ず守り導いて下さる神様、大丈夫の神様を信じていたのです。ですから、異国の地、捕虜、自由なき者、小さく、弱いという環境も、彼女から希望を奪うことはなかったのです。同じ屋根の下におりながらも、立場も違う二人は、対照的な歩みをしていたのです。
 少女は、ナアマンの妻に仕えました。神様に仕えるように喜んで仕えました。そして、ナアマンの癒しのために祈り続けたでしょう。そして、祖国にいる預言者エリシャの事を思い出しながら、少女は、ナアマンの妻に、3節の言葉、「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」と言ったのです。気休めや彼女の考えではなく、全能の神様に信頼する信仰による言葉でした。
 その言葉には力がありました。そして、その言葉をナアマンの妻はナアマンに伝えたのです。捕虜である少女の言葉を、ナアマン夫妻はまともに受け取ったのです。何としてでも治りたいという思い。何がなんでも、どんな方法でも、治ると聞けば、試してきたでしょう。そのように治りたいという思いが強かったということもあるでしょうが、イスラエルの少女の態度や姿勢、彼女が発する言葉には魅力と、ある意味での権威があったのだと思うのです。
 私たちは、自分が小さいから、弱いから何もできない。何をしたって無駄だと考えていませんか。私たちは小さくても、弱くても、私たちの信じる神様は、力あるお方、癒し主、助け主なのです。私たちも、この少女のように、置かれた環境によるのではなく、神様を信じる信仰、神様に希望を置いて、今自分ができる精一杯のことを実践していきたいと思うのです。そこにこそ神様が働かれるのです。

 二、自分のプライドやメンツが神様の祝福を奪う
 ナアマンは、主君にそのことを伝え、十分なお礼のお金や服を持ってイスラエルに向かうのです。少女の確信ある言葉に期待に胸を弾ませながら意気揚々と出かけて行ったのだと思うのです。イスラエルの王は、アラムの王からナアマンの病気を治してくれるようにという手紙を受け取り、言いがかりとつけて困らせようとしていると考え、イスラエルの王が衣を裂いたということを聞いた預言者エリシャは、自分の所にナアマンを送ってくれるように、そしてイスラエルに預言者がいることを知る、とイスラエルの王に伝えたのでした。
 ナアマンは、言われたようにエリシャの所にやってくるのです。軍司令官ですから、多くの兵士や僕たちがお供として一緒にやって来たでしょう。ナアマンは、自分の所にナアマンをよこせと言うほど、エリシャには自信があることを感じ、期待してエリシャの家の入口に立ったのです。
 何かを期待して家の前に立ったという経験があるでしょうか。これで、解決する。これで救われると思って立つ気持ちは期待でいっぱいです。エリシャは、自分では出てこないで使いをやって言わせました。「ヨルダン川に行って七度(たび)身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」 簡単な事でした。治療の方法、癒される方法が語られたのです。何と簡単なことでしょう。すぐにでも行って実行すれば、ナアマンの病気は治るのです。あまりにも簡単な指示でした。さあ、どうなったでしょう。
 皆さんと一緒に、11節、12節を共に読みましょう。「ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれると思っていた。イスラエルのどの流れよりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。」 
 エリシャの言った癒しの方法は、ヨルダン川に行って7度身を洗うことだけでした。そんな簡単なことなのに、ナアマンはできずに去って行ったのです。なぜなら、自分の思い通りにエリシャがしなかったからです。自分の思いとは違うものだったからです。ナアマンのプライドが許しませんでした。自分が期待に胸ふくらませて思った事柄と違うものだったのでがっかりした。それどころではない。怒りに満たされて爆発したのでした。
 私は、先週前の歯が抜けた、取れたので、昨日歯医者に行ってきました。やっと歯を入れてもらえる。歯医者の入口に立った時、期待に胸をはずませました。けれども、歯は入れてもらえませんでした。左右の歯も怪しいので、前の4本をブリッジでした方が、またどこかが抜けてしまうということがあるということで借り歯を作るということで、粘土のようなもので、上下の歯の型作りました。とりあえず、人に会うのだから、抜けた歯を今入れてまた来週にと言っておられたのですが、先生一人で忙しかったのでしょう。来週まで、がまんして下さいということでした。粘土のようなもので歯形を作ると、口の周りにピンクのものがつきます。後で、拭きますのでと言われたのですが、拭いてもらえず、そんなについていなかったのだろうと思っていて、教会に帰って鏡を見ると、ほっぺたや口の近くにピンクのものがついていて、この顔で帰って来たのか、と恥ずかしい思いがしました。自分の思い通りに行かないばかりか、何かいや〜な感じがして、この治療が終われば、他の歯医者に行くぞ、とちょっと腹立たしい思いでした。
 ナアマンは、そんなどころではありませんでした。自分の思い通りに行かなかったこと、また、うやうやしく自分を迎え、自分を軍司令官そして迎えなかった無礼、汚いヨルダン川より自分の国の川にこだわり、簡単に治るのに、エリシャの自分に対する態度がきにくわない。プライドやメンツ、それがせっかくの癒しのチャンスを逃してしまう可能性があるのでした。
 私たちも、自分の思い通りにいかないこと、自分に対する人の態度、自分のプライドやメンツのゆえに、祝福を逃してしまう可能性があることを覚え、神様の言葉、聖書の言葉に従う者でありたいと思うのです。

 三、そんなことで救われるのです
 ナアマンは、期待が破られ怒りに満ちて帰ろうとします。しかし、今回もナナアマのンそばには、力や権力をもたない存在が置かれていてナアマンを救うことになるのです。
 13節を共に読みましょう。「しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりになさったにちがいありません。あの預言者は、「身を洗え、そうすれば清くなる」と言っただけではありませんか。」
 優れた将軍や力ある将軍には、良き側近や家来がいたとよく言われます。ナアマンの数々の武勇伝は、この家来たちの力も大きかったように思います。家来ですから、わが父よ、と礼を尽くし、柔らかい言葉で、ナアマンの事を思えばこそ語りました。「何のために来られたのですか。病気が治るためですよね。あの預言者が無理なこと、不可能なことを言ったとしても、治るためには努力なさったでしょう。言われたとおりのことをしたことでしょう。けれども、この国のヨルダンという川で身を洗え、そしたら清くなる。と言っただけですよ。それだけで治ると言われたのですから、その通りにやってみましょうよ。」そのようにナアマンを諭したのでした。
 ここでも、神様は家来という小さな存在、力なき者をナアマンの癒しのために用いるのです。この家来たちは、イスラエルの神を信じる者ではありませんでした。イスラエルがバビロンで捕囚された時、解放を告げたのは、異邦の王クロス王でした。イスラエルの神を信じる者ではありませんでした。聖書は、クリスチャンだけが用いられる。聖書の神様を信じる者だけが用いられるとは言いません。聖書の神様を知らない人、信じない人、そのような人も、神様の働きのために用いられるのです。
 あなたの家族がクリスチャンでなくても、神様はあなたの家族を、友人を神様のご用のために、用いられることがあるのです。
 ただ、この家来たちはエリシャの言葉、神様の言葉を信じたのです。「あの預言者は、「身を洗え、そうすれば清くなる」と言っただけではありませんか。」そうしましょう。家来たちは、エリシャの言葉に期待し、信頼したのです。信じたのです。神様は、クリスチャンであろうが、そうでなかろうが、ご自身を信じる者に答えて下さるのです。
 そして、ナアマンも、家来たちの言葉を受け入れて、エリシャの言った通りに、つまり、神様の言葉の通りに、ヨルダン川に行き、七度身を浸した。神様の言葉の通りに実践したのです。そうしたら、ナアマンの体は元に戻り、小さい子どものようになった、以前より、張りもつやもよくなったのです。一番の美容方法は、聖書の言葉にあるのです。
 ナアマンは、最初、「ヨルダン川に行って七度(たび)身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」と言われて、そんな簡単なことで、自分が今まで苦しんできた病いが治るはずがないと思ったのかも知れません。十字架にかかって血を流しし、死んで下さったイエス・キリスト様を信じたら、あなたの一切の罪が赦されます。というのが聖書の約束です。そんな簡単なことで、私の罪が赦されたら困る。そんな簡単なことで、私の今までの罪が赦されるはずがない。そのように考える人も多くいるでしょう。
しかし、信じる者は救われるのです。難行苦行をする。お遍路周りをする。寒い時期に裸で滝に打たれる。そいしたら救われると言われれば、努力するかも知れません。でも、聖書は、「イエス様の十字架と復活」を自分のためであると感謝して受け入れる、信じるならば、私たちの過去、現在、未来の全ての罪が赦され、魂が救われ、永遠の命を約束しているのです。あなたは、そのことを信じるならば、感謝するなら救われるのです。いや、もうすでに救い和は与えられているのですから、感謝して、それを認めて受ければいいのです。あなたが、救われるために、努力する、精進する、頑張ることはないのです。

 V結論部
 ナアマンの病の癒しのために、捕虜としてアラムに連れて来られた、自由のない、奴隷の小さな、弱い存在の彼女が用いられました。また、ナアマンのそばにいて、いつも仕えていた家来たちも、ナアマンの病いの癒しのために用いられたのです。
 強い人だけが、力ある人だけが、数を多く所有する者だけが用いられるのではありません。たとえ、劣悪な環境に置かれ、理不尽な経験をしようとも、私たちに力がなくても、弱くても、神様は私たちを神様の尊いお働きのためにお用いになられるのです。弱くてもいいのです。小さい存在でもいいのです。弱いからこそ見えてくるものがあります。小さいからこそ、導かれるものがあります。少ないからこそ、発見するものがあるのです。私たちは弱くても大丈夫です。私たちの弱さは弱さのままでは終わりません。小さいままでは終わりません。少ないままでは終わりません。神様は祝福して下さいます。いやたとえ、小さいままであっても、弱いままであっても、少ないままであっても、私たちには天地宇宙を創造され、歴史を導き、支配しておられるお方、御子イエス・キリスト様を人間の世界に遣わし、十字架と復活を通して、私たちの魂を救い、罪を赦し、永遠の命を与えて下さったお方、神様、そしてイエス様、聖霊様が共におられるのです。
 ですから、どのような環境に置かれても、私たちはあの捕虜であり、不自由な環境で、つぶやくことなく、自分の人生を投げ出すことなく、どこまでも神様に期待して、信じた少女のように、神様を心を尽くして、本当に信じたいと思うのです。
 また、自分の上司、将軍の荒れ狂う怒りに対して、ナアマンの病気に癒しを願うからこそ、また、エリシャ4の言葉、神の言葉を信じて、愛を持って語った家来たちのように、理解できる、できない、自分の思い通りかどうかに関係なく、どこまでも神様の言葉、聖書の言葉を信じて、この週も神様に、イエス様に期待して歩ませていただきたいと思うのです。
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