![]() 日曜礼拝(2015年7月12日) 日曜礼拝(三位一体後第六) 2015.7.12 「きっとあなたもやり直せる」 列王記上17:8〜16 T導入部 おはようございます。7月の第二日曜日を迎えました。雨が続いておりましたが、昨日、おとといと晴れて、久しぶりに太陽の光を浴びました。太陽の光は暑いのですが、やはり雨がずっと続くと滅入ります。晴れはいいですね。今日も晴れで、心も何か晴れやか。今日も教会に共に集い、愛する兄弟姉妹と共に、私たちの救い主イエス様に礼拝をささげることができますことを感謝します。 水曜日から伝道委員会がありました。水曜日は、ナザレン神学校のチャペルにお伺いして、鹿児島教会の久保木先生がオカリナ演奏をし、桃谷教会の木坂先生がメッセージをして下さり、その後6名の神学生、神学校校長の石田先生、そして、目黒教会の松川先生ご夫妻、教団主事である土肥先生ご夫妻と伝道委員4名、計15名で昼食をし、お交わりをさせていただきました。 伝道委員会では、今年の11月に開催されるナザレン伝道フェスタについて、講師の石田先生と話し、木曜日には、講師の横山先生と学園教会で話し合いました。また、10月の教職セミナー前日に開催する、牧師になって10年未満の先生方との会合についての話し合いをしました。伝道委員会の働きのためにお祈り下さい。 昨日は、ジョイキッズがありました。楽しい時を持つことができました。 さて、今日は列王記上17章8節から16節を通して、「きっとあなたもやり直せる」という題でお話ししたいと思います。ん U本論部 一、小さくてもいいのです エリヤは、旧約聖書の中で神様に大いに用いられた器です。イエス様の姿が、真っ白に輝いた変貌の山では、イエス様とモーセとエリヤが三者会談をしたことが福音書には記されています。それほどに、エリヤの存在が大きく、意味のあることを記していると思うのです。 エリヤは主役です。神様の言葉を信じて神様の大きな働きのために用いられました。しかし、主役の働きは勿論大切ですが、その主役を助ける脇役も備えられています。17章の初めには、神様はからすによってエリヤを養われました。すごい脇役です。 そして、今日の箇所では、イスラエルでは、最も弱く、小さな存在として示されるやもめ、ご主人を亡くした女性を通して、エリヤを養われるのです。 人間的に見るならば、「神様、できればもっと安心できるような人、力や財がある、有名な人だったら」と思います。私たちが大丈夫と思えるような人に養ってもらうほうが安心できます。けれども、神様はそのような人を用いないのです。 新約聖書コリントの信徒の手紙第一1章27節から29節には、「ところが、神は知恵のある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」とあります。 リビングバイブルという聖書には、「それどころか、神様は、この世では愚か者、無価値な者と思われている人々を、わざわざお選びになりました。それは、この世で知恵のある者、りっぱな人とされている人々を辱めるためです。神様は、いわゆるこの世で見下されている者、全く取るに足りない者を選び、そんな人々を役立てることによって、世間では大物と言われる人々を、なきに等しい者とされたのです。ですから、どこのだれであっても、神の御前で自慢することはできません。」とあります。 この聖書の言葉にあるように、神様は、エリヤのためにこの女性、最も弱く、小さな存在である人を豊かに用いられるのです。私たちも、この世的に見て、人間的に見るならば、小さな存在、弱い存在であることを実感させられています。けれども、神様は、弱い、小さな私を、あなたを神様の尊いお働きのために、豊かに用いられるのです。 二、現実の困難の中で神を見る 17章8節では、神様がシドンのサレプタに住むやもめにエリヤを養わせると語られました。ですから、エリヤはシドンのサレプタに向かいます。10節を見ると、そのやもめは、薪(たきぎ)をひろっていたのです。その女性に、エリヤは、水を要求します。そして、水だけではなく、パンも一切れ持ってきてくれるようにと頼んだのです。この女性は、水をと頼まれて水を取りに行こうとしますが、パンもと言われて、彼女は言います。皆さんと共に12節を共に読みましょう。「彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺(つぼ)の中に一握りの小麦粉と、瓶(かめ)の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」」 厳しい現実がありました。神様の預言の通リに雨が降らず、水不足と雨が降らないので作物も不作だったでしょう。このような時に、一番早く被害を受けるのが、貧しい人々、やもめだったのです。エリヤからパン一切れ下さいと言われて、自分たちの窮状、一握りの小麦粉とわずかな油で最後のパンを作り、それを食べてしまえば、あとは飢えて死ぬだけだと訴えたのです。 リビングバイブルを見ると、17章8節、9節には、「その時、神様のおことばがありました。「シドンの町に近いツァレファテ村へ行き、そこに住め。その村には、おまえを食べさせてくれる未亡人がいる。彼女にちゃんと指示を与えておいた。」」 神様がこのようにエリヤに語ったとするならば、次のエリヤの言葉は理解できます。 13節を見ると、「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。」 やもめは、最後のパンを焼いて、それを自分と子どもと分けて、死ぬ前にパンを食べると言っているのに、あなたが言ったようにパンを作りなさい。しかし、それはあなた方が食べるのではなくて、私に持って来なさい。普通は非常識でしょう。「エリヤさん、何言っているの。最後のパンだと言っているじゃないの。話しを聞いているの。最後のパンだから、あなたにパンを持ってくるとやもめと息子の分はないでしょう。」 しかし、神様がやもめに食べさせるように指示を与えた、とあるのでエリヤはパンを求めたのかも知れません。 エリヤは、神様の約束の言葉、「わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」という言葉を信じていました。 やもめ自身が語ったように、現実は厳しいです。死がそこまで近づいている絶体絶命の状況です。エリヤ自身も川が涸れたら水を飲むことはできません。干ばつの厳しい現実は、エリヤにも押し寄せるのです。しかし、エリヤは現実だけを見るのではなく、神様の言葉に立って語り行動するのです。やもめにとっては、エリヤの言った言葉、「まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。」とは厳しい言葉、辛い言葉でした。ただ、現実だけを見るならば、彼女と子どもには絶望しかなかったのです。しかし、そこには、神の人エリヤがおり、神様の言葉が生きて働いているのです。 私たちのクリスチャン生活の中で、厳しい現実、辛い現実を突きつけられます。万事休す、と天を仰ぎます。しかし、そこには、神様が共におられるのです。私たちは、絶望で天を見上げるのではなくて、信仰を持って、信頼をもって天を見上げたいと思うのです。 三、全てを神様にゆだねる やもめの現実は死を感じさせる辛いものでした。しかし、エリヤは神の言葉を語るのです。皆さんと共に14節を読みましょう。「なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」 エリヤが、やもめと子どもがパンを焼いて食べる前に、まず自分(エリヤ)の分を作って持って来て、それからやもめと子どものために作れ、と言ったのは、エリヤが自分の事しか考えていないというのでもなく、エリヤが自分は神に仕える人ですから、まず私から、というのでもなく、神様の約束の言葉を握りしめていたからなのです。 エリヤは、神に立てられた器で、神の言葉に立っていました。しかし、このやもめはどうでしょう。最後のパンを作るだけの粉と油しかないという現実を目の前にして、やもめは、今エリヤが語った、指示した神の約束の言葉をどのように受け取ったのでしょうか。本当に、パンを作って先にエリヤに渡しても大丈夫なのか。神は、「主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」と言われる。それが本当なら、どんなに助けることか。命が守られ、生活が守られる。しかし、それが本当でないなら、私たちは、最後のパンを食べることができずに死んで行く。そんなことになれば、この子が不憫(ふびん)だ。彼女の心は、神様に信頼するか、現実に生きるかで葛藤したのです。 彼女はどうしたのでしょうか。15節を共に読みましょう。「やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。」 最後の粉と油で最後のパンを作りました。おいしそうなにおいがして、おなかのすいた子どもは、そのパンを食べたいと思ったでしょう。子どもを思う親の気持ちを私たちは感じます。現実は厳しいものがあります。けれども、やもめはエリヤの言葉の通リに、まずエリヤにそのパンを渡しました。そして、現実には、常識では無くなっているであろう壺から粉を出し、壺から油を出して自分の息子、家の者たちのためにパンを焼いてたらふく食べたのです。そして、その日だけではなく、何日にも何日も食べ物がなくなることはなかったのです。エリヤの言ったとおりに、神の言葉のとおりに、「壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」ということなのです。だったら、雨が降ってほしくないとまで思えるほどの、神様の祝福を経験したのです。 たとえ、エリヤが神の言葉を語ろうとも、「主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」といいことを言っても、現実は現実、見えるものはわずかだったのです。しかし、このやもめは、エリヤの言葉、つまり神様の約束の言葉にかけたのです。それは、ゲームや賭け事のように、黒か赤か、こっちかあっちかというようなものではなく、自分の全生涯を、息子の生涯を、つまり命をかけて神様に信頼して、決断して、エリヤの言葉、神様の言葉に信頼して、信じて、その言葉に身を投じて、言葉のとおりにしたので、エリヤもまた養われたのです。本当は、最もみじめで、弱く、小さなやもめ、誰かから養われなければ本来生きてゆけないこの女性が、神様にかけた人生が彼女も、彼女の家族も、そして、エリヤの命も救う存在とされたのです。 イエス様は、私たちのために十字架で命を投げ出して下さいました。命を与えて下さいました。だからこそ、私たちは神様の前に、罪が赦され、魂が救われたのです。そして、イエス様がよみがえられたので、私たちも永遠の命が与えられたのです。 イエス様は私たちのために、命を与えて下さいました。このイエス様に私たちも身をゆだねていきましょう。あのやもめのように、厳しい現実の中で、私たちはイエ様に全てをかけて、ゆだねていきたいと思うのです。 V結論部 やもめは、死の直前にエリヤを通して、彼女の神様に対する信頼と信仰、その実践によって、彼女は神様の言葉の通りに祝福を経験しました。彼女は、死の淵からやり直しができたのです。聖書は、たとえ私たちがどのようなマイナスの中に置かれても、現実の厳しい波が押し寄せようとも、神様によってやり直しができるのです。今、どこに立たされていても大丈夫なのです。 神様は、やもめがエリヤの言葉に従って、神様の言葉に信頼したので祝福されたとも言えますが、神様はすでにエリヤが、このやもめの所に来る前に、エリヤに、「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」とすでに約束しておられたのです。ですから、やもめがエリヤの言葉、神の言葉に信頼して、従い、実行するという信仰は、神様が彼女に与えられたのです。 私たちも、今がどのような厳しい現実が目の前にあっても大丈夫です。神様の約束はすでに与えられています。そして、神様の言葉に応答して、従い、実践する信仰も神様があなたにも与えて下さるのです。だから、大丈夫です。あなたは立ち直ります。やり直せます。そう約束されるイエス様に目を留めて、この週も神の言葉、聖書の言葉に触れて、神様、イエス様を信頼して、信じて歩んでまいりましょう。 |
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