![]() 日曜礼拝(2016年2月28日) 「主のまなざしを見よ」 2016/2/28主日説教 説教者 満山リベカ ★聖書箇所 ルカによる福音書22章31〜34,54〜62節(新共同訳) みなさん、おはようございます。 今日は受難節第3主日礼拝です。イエス様が十字架に架かって死なれ、その3日後に復活された日曜日をイースターとして私たちはお祝いするのですが、そのイースターまでの46日間を受難節(Lent)と呼び、イエス様の十字架の苦しみとその死をしのび、悔い改めと祈りの生活を送ります。今年のイースターは3/27ですね。本日は私、神学生の満山リベカが、大変つたない者ではございますが、聖書のメッセージを取り次がせていただきます。初め にあたり一言祈らせていただきます。 ★祈り 今日は、ルカによる福音書から聖書の言葉を共に味わいましょう。ルカによる福音書22章31節から拝読いたします。 22:31「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。 22:32しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 22:33するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。 22:34イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」 これは、イエス様が十字架にかかって死なれる前日、12弟子を集めて最後の晩餐をされた時の話です。イエス様は自分を裏切る者が、この中にいると言われました。弟子たちは、驚き、「まさか自分ではないでしょう?」と口々に言いあいました。 その後、イエス様は弟子の一人ペトロにこうおっしゃったのです。 31節を見てみましょう。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と。 ペトロの本名はシモンです。イエス様が、その人の名前を繰り返して呼ばれる時は多くの場合、特別な注意を呼び起こすためです。イエス様だけは、今から裏切りにあい、捕えられ、十字架刑という最も苦しく残酷な刑で死ぬということをわかっておられたのです。 イエス様は「あなた方12弟子たちは(少し前の箇所24節で)、誰が一番偉いかとなどというつまらない論争にうつつを抜かしている時、サタンはあなた方を全て滅ぼそうと計画を練っていたんですよ。」サタンは人を誘惑する場合でも、神の許可が必要です。サタンはイエス様の弟子の一人であるユダを「罪に陥らせること」に成功し、それだけではなく、弟子達全員を罪に陥らせる計画を神様に認めさせたのです。この「麦のようにふるいにかける」とは、脱穀の時に麦と殻をふるいで仕分けするように、本物と偽者とを意地悪くふるい分ける行為を表わしているのです。 イエス様はサタンの策略を知り、悲しく思われただけでなく、弟子たちの為に祈られました。「ペトロよ。これからサタンの計画があり、あなたは打ちのめされるでしょう。しかし、私は、あなたの信仰が全く無くならないように祈りましたよ。あなたは私を裏切って捨ててしまうかも知れない、でも、それで終わりではない。あなたはきっと立ち直るのです。立ち直って信仰が回復したら、他の弟子達を助けてほしいのです」と言われました。 それを聞いた弟子のペトロはどう反応したでしょう。33節です。「イエス様、私はご一緒になら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と、自信満々に答えたのです。ペトロはこの時、自分の弱さを全く自覚していませんでした。しかし主は、それを指摘なさらず、「ペトロ、あなたは今日、鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないと言い、私を裏切るでしょう。」とおっしゃったのでした。 このペトロとはどんな人物だったのでしょう。 ペトロはイエス様が選ばれた12人の弟子のうちの一人であり、元漁師です。漁師あがりということもあって、彼は気性の荒いところがありました。彼は物静かな慎重なタイプではなく、積極的で行動派であり、好奇心が旺盛で、少々あわてんぼうなおっちょこちょいな面もありましたが、何よりもペトロは愚直なまでに真実な人でした。彼は欠点も多く、ほめられると有頂天になったり、しゃしゃり出たりして、 イエス様によく怒られる人でした。しかし、裏表がなく、気持ちのよいぐらい腹の中をさらけ出す性格です。心がむき出しな分、傷つき、誤解も生んでしまうでしょう。しかし、真実なイエス様とも直通で心が通うことができました。ですから、イエス様はペトロをこよなく愛されました。そして、ペトロは主イエスについて行こうという熱心さだけは誰にも負けない弟子でした。ここでも「イエス様と一緒なら、牢屋に入って死んでもよい」とまで言っています。ペトロは自分の信仰、イエス様への愛、忠実さには自信があったのでしょう。 その結果、どうだったのでしょう。 数時間後、イエス様は12弟子の一人ユダの裏切りにあい、捕えられました。 そしてあれだけイエス様を慕っていた12人の弟子たちは一人残らず逃げて行ったのです。 もちろんペトロも逃げていきました。 続いてルカ22章の54節から62節を読んでみましょう。 「人々はイエスを捕え、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火を焚いて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、『この人も一緒にいました』と言った。しかし、ペトロはそれを打ち消して、『わたしはあの人を知らない』と言った。少したってから、ほかの人がペトロを見て、『お前もあの連中の仲間だ』と言うと、ペトロは『いや、そうではない』と言った。一時間ほどたつと、また別の人が、『確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから。』と言い張った。だが、ペトロは、『あなたの言うことは分からない』と言った。まだこう言い終わらに内に、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして、外に出て激しく泣いた。」 この、三度も主イエスを知らないと言ったペトロの物語は、大変良く知られています。 ペトロは、イエス様が捕らえられた時に恐くなっていったん逃げてしまったのですが、イエス様を心配し、遠くからこっそりついていき、危険を犯してイエスが連れて来られた大祭司の家の中庭にまで入り込みました。他の弟子達がどこかに行ってしまいましたが、ペトロだけはイエス様の後を追ってきたのです。そしてそのあと、人々に見つかってしまい、イエスを知らないと三度も否認をしてしまうのです。三度目に否定したちょうどその時、愛するイエス様がふり向いてペトロを見つめられました。 夜の暗闇の中で、そして大勢の人ごみの中で、自分を否定した愛弟子ペトロを見つめられたイエス様のまなざしは、どんなものだったのでしょう。「やっぱり!お前は裏切ると思っていたが、言った通りじゃないか!」と、ペトロを責め、非難する怒りのまなざしだったでしょうか? いいえ、きっとそうではないと思います。イエス様のまなざしは、悲しみをたたえながらもペトロへの愛と憐れみに満ちていたと思います。 イエス様はペトロを見つめながら、「ペトロ、あなたが恐れの為逃げ出し、さらにとっさに私を三度も否定し裏切ったけれど、私はあなたを責めないよ。今だってあなたを愛しているよ。私はあなたを見捨てない。これから私はあなたの罪のために十字架に向かうから。私はあなたの罪を背負い、身代わりになって死ぬため、あなたを贖い、罪をすべて赦すために進んでゆくのです。わたしはあなたの信仰が無くならないように祈ったではないですか。あなたはこれから自分の弱さ、裏切り、罪深さに、自分を責め、 苦しむと思いますが、私はあなたがその後きっと立ち直り、より信仰が深められ、強められると信じているよ。私はあなたがこの大きな失敗をするのはわかっていたけれど、あなたはそれで終わりではないよ。あなたが私を捨てても、私はあなたを捨てないから。挫折しても、失敗しても、何度罪を犯しても、私はあなたをあきらめないから。あなたはきっと立ち直り、他の兄弟姉妹たちを助ける者になると信じているから。」 そのような主のじっと見つめるまなざしを感じたペトロは、もはやそこにいたたまれなくなり、中庭から飛び出して、外に出て激しく泣き崩れました。自信にあふれていたペトロは、初めて自分の弱さ、自分の罪、自分の醜さを思い知らされたのでした。そしてそれさえ赦し、どこまでも愛し通して下さるイエス様の愛のまなざしに耐えられなくなって、外に飛び出して男泣きに泣いたのです。 このイエス様の最後のまなざしと、激しく泣いたあの夜のことをペトロは生涯忘れることはででませんでした。 イエス様はこの後、十字架刑という最も苦しい刑で死なれました。そして三日後の日曜日の朝に死よりよみがえられたのです。 ルカ24:34には「主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた」という11弟子たちの言葉が書かれています。十字架にかかり死なれ、三日目に死からよみがえられたイエス様が、ペトロの前に現れて下さったのです。イエス様はなぜペトロ個人に現れてくださったのでしょうか? イエス様は、ペトロが落ち込み、自分を責め、苦しんでいることをよくご存じだったので、ペトロを励ますためにペトロの前に、個人的に現れてくださったのです。主イエス様は、思いやりと愛と配慮とに満ちたお方だということがわかりますね。 愛するイエス様が死から復活されたというペトロのその目撃証言によって、落ち込んでいた他のイエスの弟子達にも喜びが満ち溢れました。彼らが経験したこの喜び、復活への確信が、その後弟子達を世界宣教へと押し出すエネルギーとなりました。イエス様が捕まった時、自分の身の安全しか考えず、一目散に逃げて行ったあの臆病だった弟子達が、まったく変えられ、あらゆる迫害、非難、攻撃を乗り越えて、大胆に世界に宣教の為に出て行ったその理由は、イエスが死からよみがえられ、私たちの救い主となってくださったこと、そして今も生きておられ、私たちを守り、助けてくださるというすばらしい事実を知ったからでした。実際に宣教活動が始まったとき、ペトロは「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」(使徒言行録2:32)と、イエス様の復活の事実を全面に出し、力強く証言したのでした。 ペトロはよみがえったイエス様に直接お会いし、その後、イエス様の使徒として働くのですが、ペトロの立ち直りの原点は、イエス様のあのまなざしにありました。あのまなざしに見つめられ、自分でも普段はなかなか気づくことのできない、自分の弱さ、罪深さ、醜さを、嫌と言うほど思い知らされ、暗闇のどん底を通されたからこそ、自分の中の闇が深ければ深いほど、挫折や試練が激しければ激しいほど、私たちは、私たちにそそがれるイエス様のまなざしの、あまりの憐れみ深さと、赦してくださる主イエスの愛のあまりの大きさに気づかされるのです。 イエス様のこのまなざしは、今も私たちに向けられています。私たち人間はみな、とても弱く、もろく、欺きやすい、変わりやすい不確かな存在です。たとえクリスチャンであっても、しょっちゅう思いと、言葉と行動において罪を犯し、主イエス様を悲しませてしまうものであります。時には大きな間違いや失敗をする時もあります。何度私たちがイエス様を裏切っても、悲しませても、それでもイエス様は私たちを愛することをやめないのです。それどころか私たちの信仰がなくならないよう、私たちの代わりに祈って下さり、私たちが必ずや立ち直ることを信じ続けて下さるのです。私たちが罪を犯す前から、また罪のただ中にいるときにも、そして立ち上がれず打ちのめされている時でさえ、主は愛と憐れみのまなざしをもって見つめて下さり、私たちが再び立ち直る勇気と力を与えて下さるのです。 私達は自分自身の内側を見て、また健康的な弱さや性格上の弱さを見て、またおかれている状況の厳しさを見て、また、自分が犯してしまった大きな過ちや失敗、罪を見て、とことん落ち込んでしまうときもあるでしょう。また順境の時は、神様を賛美し感謝をすることができても、ひとたび思いもかけない逆境や試練の中を通されるとき、全く希望が見えず「なぜ、どうして」と打ちのめされるときもあるでしょう。しかし、どんな状況にあっても、私たちは、イエス様の復活の力によって、ペトロのように再び立ち上がることができるのです。苦しみの中にいる時、弱さや痛み、罪や失敗、恥と恐れに打ちのめされ、どん底の時こそ、死にも打ち勝たれた復活された主イエス様を見つめましょう。 イエス様だけは、私たちがどんな状況にあっても、愛のまなざしをもって見つめ続けて下さり、私たちを愛しぬき、信じ抜き、味方でい続けて下さるのです。イエス様の願いとはなんでしょうか? それは、どんなに弱くても、何度失敗しても、あなたが何度でもイエス様のもとに戻ってくることです。そして、私たちを救うために命まで捨てて下さったイエス様の愛に応えて、その差し出されたイエス様の愛を受け取り、その愛をもって、周りの人々を愛することです。 私たちはみな、神様によって、神様との愛の関係の中で生きるように造られました。しかし、すべての人は自分勝手に生きてしまい、罪を犯してしまいました。私たちと神様との関係は罪によって遮断され、本来受け取れるはずだった祝福を受け取れず、あらゆる悪い思いや苦しみにがんじがらめになり、苦しんでいます。罪を持ったままでは誰一人天国へ行くことができず、死んだあとはさらに永遠の滅びで苦しむことになると聖書は教えています。神様は、私たち人間を心から愛してくださっておられるので、一人子イエス様をこの地上に送って下さりました。イエス様は、ただの一度も罪を犯したことがなかったのに、私たちの犯した罪を身代わりとしてすべて背負って、罰せられ、十字架にかかって死んで下さいました。そして3日後に死に打ち勝って復活され、今も生きて、私たちを愛し、守ってくださっているのです。イエスを救い主と信じるものは、すべての罪が赦され、救われ、永遠の命が与えられ、生きている間も、いつも主が共にいてくださり、助けてくださるのです。 私たちは、自分一人がイエス様の愛のまなざしを知り、イエス様を信じ、救われたらそれでよいのでしょうか?そうではありませんね。 ヨハネ3:16-17にはこうあります。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅ないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」 神様はその一人子イエス様を身代りに差し出すほど、世を愛されたのです。この「世」の部分にあなたの名前を入れてみてください。「神は、その独り子イエスをお与えになったほどに、満山リベカを愛された。あなたを愛された。それは独り子イエスを信じる者が、一人も滅ないで、永遠の命を得るためである。神が御子イエスを世に遣わされたのは、あなたを裁くためではなく、御子イエスによってあなたが救われるためである。」 神様は、私たちが誰一人として罪を持ったまま滅んでほしくないのです。すべての人がイエス様を救い主と信じ、救われて、永遠の命をもってほしいと願っておられるのです。 だからイエス様はペトロに「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」をおっしゃいました。これは、イエスのことを知らず、自分の犯した罪や失敗の結果に苦しみ、健康や性格の弱さに悩み、恥と痛みと罪悪感に苦しんでいる多くの人々に、イエスの愛のまなざしと、復活の力と、希望を伝えに行きなさい、そして励まし、力づけてあげなさいという、イエス様の心からの願いなのです。 どんなに問題や弱さを抱えていても、人には言えない隠れた罪や暗闇があっても、無条件に私たちを愛し、受け入れ、赦し、信じて下さるイエス様の愛と、死にも打ち勝たれたイエス様の復活の力を受け取った私たちも、立ち直って使徒となったペトロのように、他の人々にイエス様の愛と救いを伝える為に歩き出そうではありませんか。 「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。(マルコ16:15)」 これはイエス様の言葉です。伝道は牧師や宣教師だけがするのものではありません。イエス様を信じ、救われ、神の子とされたすべてのクリスチャンは、イエス様から宣教の使命を与えられ、伝道者として召されているのです。 あなたは家族親族の中で、一人目のクリスチャンですか? もしそうなら、それには大きな神様のご計画があります。あなたを通して、家族が次々と救われて行くように、神様があえて一番最初にあなたを選んでくださったのです。神様はあなたに期待をしておられるということです。 あなたは、二代目、三代目、四代目のクリスチャンですか? もしそうなら、あなたは感謝してください。あなたは代々祈られているのです。あなたは力強い祈りと祝福の連鎖の中にいるのです。神様があなたをクリスチャンファミリーの中においてくださったのには大きな計画があります。神様はあなたを選び、あなたに期待してくださっているのです。 今ここには、会社員、学生、子育て中のママ、また仕事を引退された方々、子供達、闘病中の方々など、 様々な方がおられます。それぞれ置かれた場所は異なり、果たすべき役目も異なるでしょう。でもどうぞ知ってください、今あなたがおかれた場所にはとても意味があるのです。それぞれが今置かれた場所で、キリストの香りを放っていきましょう。神様を愛し、周りの人々に愛をもって接していくのです。そして周りの方々と良い関係を持ち続け、イエス様の愛を伝えていきましょう。機会をとらえて、家族や友達や職場の方々を、教会の礼拝や各集会に誘いましょう。「でも誘っても、もし来なかったら?」などと心配する必要はありません。来る来ないはその方の自由です。私たちは、良い種を蒔き続けるだけです。結果は神様にお任せしましょう。祈りつつ愛の行動をとり続け、結果はすべて神様におゆだねするのです。 宣教の使命はイエス様を信じる一人一人に与えられているのですが、宣教の委託はむしろ共同体、つまり教会への委託なのです。教会は、宣教の委託を与えられて、この世に送り出され、宣教の使命を果たすために、この世に置かれているのです。イエス様が教会を立てて下さいました。この青葉台教会もそうです。教会の頭はイエス様です。私たちは、神様によって召し集められた、神の家族なのです。教会というチームがあるのですから、一人一人ができることを行って、チームで伝道していくことが大切です。自分に与えられている賜物を生かして教会の奉仕チームに入ることもすばらしいですし、周りの人々に親切に声をかけて気づかうこともすばらしいです。また、教会に家族や友達や職場の人たちを積極的に誘うこともすばらしいでしょう。「ああ、でも私には何もできないわ」と思う方がもしおられたら、どうぞ、教会の為に祈ってください。牧師の為、教会の兄弟姉妹の為、病気や弱さの中におられる人々の為、教会学校の子供たちの為。祈りの援護射撃は、教会にとってなによりも大きな助けであり、教会の力になるからです。私たちは一人一人異なる賜物を神様から与えられているのですが、それは自分の為に使うのではなく、他の人に与える為に神様から与えられているのです。神様から与えられている自分の賜物を発見し、磨き、他の人を助けるために用いていきましょう。 先ほど読みましたルカ22:32の「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」というイエス様の御言葉は、実は、私が献身を決意することになった、神様からの召命の御言葉です。 私も何年も主の御心にそむき、自分勝手に生きていたのですが、数々の試練を通され、打ちのめされ、どん底にまで落ちた時にこの御言葉に出会い、イエス様の愛の大きさがようやくわかり、やっと心から悔い改め、立ち直り、主の道を歩むことが出来たのです。 私たちがどんな状態であっても、どんな弱さや問題を抱えていても、罪の中にがんじがらめになっていても、私たちを見つめる主イエスのまなざしは変わることなく、愛と憐れみに満ちています。私たちはイエス様を信じる時、その復活の力によってどんな状態であっても立ち直ることが出来ること、そして立ち直った後は、愛するイエス様の為に尊い使命を持って歩めるのだという喜びを忘れることなく、これからも教会というチームで、支え合い、励まし合って、共に歩んでまいりましょう。 ★最後の祈り |
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