日曜礼拝(2015年10月11日)
日曜礼拝(2015年10月11日)
 マタイによる福音書 7章24節〜27節  『継続は力なり』

 今日は主任牧師の江上先生が、目黒教会での特伝のご奉仕に行かれているということで、神学生の私が、未熟ですがメッセージをさせて頂きます。そして、今日は何の日だか皆さんご存知でしょうか? 今日は、最初にナザレン教会が出来たことをお祝いする日なのです。最初のナザレン教会は、1895年10月にアメリカのカリフォルニア州ロサンゼルスで結成されました。日本のナザレン教会の最初は、京都で1907年に始められました。ちょっとした豆知識として、覚えていただけたらと思います。

 先ほど拝読して頂きました、この家の土台のたとえ話は、マタイによる福音書5章から続く、イエス様が弟子たちと群衆に語った、「山上の説教」の最後のお話です。この「山上の説教」には、神の国の憲法とも言えるような主の教えや思いが、ぎっしりと詰まったところなのです。
イエス様は、その場にいた群衆にのみ語ったのではなくて、場所や時代を越えて当時生きていた人々、これから生まれてくる人々、すべての人々に向けて語られたのです。

 家や建物を建てる時に最も大切なのは、その土台です。例えば、東京タワー。東京タワーは、高さ333メートルありますが、その土台というと、4つの太い柱がありまして、その4つの柱の地下には、15メートルもの柱が埋まっているそうです。
そして、3年前に完成された、東京スカイツリー。東京スカイツリーは、高さ634メートルありますが、その土台がどのくらいあるか、皆さんわかりますか? スカイツリーの土台は、3つの太い柱で出来ていて、その柱を埋めるために、なんと50メートルも掘って、柱が埋まっているそうです。
 
 建物を建てる時に土台が大切であるという事は、世界中どこへ行っても同じことなのです。特に当時のイスラエルのような砂漠地域に住んでいる人々にとっては、それはすごく現実的な問題だったのです。
イエス様が「岩の上に自分の家を建てた賢い人」のことをお話しされたとき、当時のイスラエルの人々が誰でもよく知っている経験をお話しされたのです。当時のイスラエルでは、家はレンガで、乾季(雨の少ない時期)に建てられていました。その家を建てている時は、雨が降って、川があふれて、嵐のような風が吹いても、どれくらい耐えられるか、その家が丈夫かどうかは、見た目では判断できなかったのです。実際に、雨が降り、川があふれ、嵐のような風が吹いてその家を襲うことがないと、それに耐えられるか、耐えられないかわからかったのです。
 この話の中の「雨が降り、川があふれ、風が吹いている」状況とは、人生の中でおとずれる様々な試練や、困難やあらゆる誘惑のことを表しているのです。
「岩の上に自分の家を建てた賢い人」は、イエス様の御言葉に、素直に従い実行している人のことを指しています。また、「砂の上に建てた愚かな人」は、イエス様の御言葉に逆らい、聞いてはいるものの、実行しない人の事を指しています。

 イエス様の御言葉を聞いても実行しなければ、どのようになってしまうのか。例えば、旧約聖書の列王記から預言書に至るまで色々なところに偽預言者が登場しています。彼らが語ることは神様の御心ではなく、時には自分達の地位を守るために使った、王様に媚びる為に出た言葉でした。つまり人の欲望が土台となっていたのです。その王様が偽預言者の預言の言葉に従った結果、イスラエルは他の国に滅ぼされてしまいました。「岩の上に建てた賢い人」も、「砂の上に建てた愚かな人」も、どちらも同じように家を建てています。外からの見た目はあまり変わりません。その違いがはっきりとするのは、嵐のような試練が起きた時にわかると、この箇所で記されています。賢い人の家はどんなにひどい嵐が来ても倒れることはありません。でも、砂の上に建てた愚か者の家は、嵐が来ると倒れてしまうのです。しかも「その倒れ方はひどかった。」とあります。
 「岩」とはイエス様の事なのです。イエス様の御言葉を人生の土台とするとは、イエス様の御言葉を聞くだけではなくて、実際に従うことです。イエス様のおっしゃるような「岩の上に自分の家を建てた賢い人」になるには、日々の小さい事の積み重ねが大切だと思うのです。
サッカーに例えますと、基本技術をしっかりと身に着けないと、いざ試合になった時に、ボールを止めることが出来なかったり、ボールをしっかり蹴ることが出来なかったりします。サッカーでは基本技術が非常に大切なのです。基本がしっかりしているからこそ、派手な技が出来たり、観客を喜ばすような大胆なプレーが出来るのです。これはサッカーに限らず、あらゆることに当てはまることだと思います。文字を書く時も、姿勢を正して、手首の角度など基本姿勢があると思います。 
 ではそれは、どうしたら身に着くかというと、やはり日々の地道な訓練が必要不可欠になってくると思うのです。日々、コツコツと同じようなことをすることによって、体に染みつき、そして身に着いてきて、自分の物になってきて、自然と出来るようになってきます。それは私たちの信仰生活でも、同じようなことが言えると思うのです。私たちクリスチャンの基本と言ったら何になるでしょうか? それは毎日聖書を読んで御言葉に触れること。神様からのメッセージを聞くこと。お祈りや賛美をすることです。でも、無理に頑張り過ぎたりしないように、自分の出来る範囲で、自分のペースでやって行けば良いのです。ここで大切なのは無理をしないで続ける、ということです。無理をせず小さいことを続けていけば、必ず身に着き、そして力になります。
神様は私たち、お一人お一人に多くの恵みを与えて下さっています。イエス様が十字架につけられ、我々の罪を全部背負い、身代わりで死んで下さり、そしてその後に復活されました。それによってイエス様の十字架の死によって、それを信じる私たちの罪、今までの罪もこれからの罪も全部、赦されているのです。
 神様は私たちに約束をして下さいました。
 @人生にはいつでもやり直しがきくこと。
 A人生の中で起きる出来事は、全て益になり、プラスになること。
 B人は誰もが、役に立つ存在であって、すでにもう世の光であること。
 C人生の終わりは、人生の初めよりも更に良くなっていること。
これが福音なのです。
 イエス様という土台の上に自分の家を建てましょう。自分の考えやお金、他人の評価、地位や名声という土台の上に建てた家は、はたから見たら立派に見えますが、試練の時に違いが出てきます。それらは永遠には続きません。すべては一時的でとてももろいものだからです。
しかし、イエス様を土台にして自分の家を建て上げた人々は、その人の家はしっかりと頑丈であり、どんな荒波にのまれようとも、びくともしないのです。
 イエス様は御自分のことを、ヨハネによる福音書14章6節にありますように「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われました。つまり、イエス様こそが真実なのです。何事にも左右されることのないお方です。ヤコブの手紙 1章22節に「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」さらにヤコブの手紙 2章26節には「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。」とありますように、御言葉をただ聞くだけの者にならないで、行う者になりなさいと聖書には記されています。

 サッカーの試合をやっていますと、選手は監督からの指示や采配がとても重要になってくるのです。その監督からの指示で、指示されたポジションに行くと、ボールが流れ込んで、得点をすることが出来、思いもよらないスーパープレーが出来ることがあります。
 私たちにも、人生の素晴らしい指導者、イエス様がおられます。その御言葉は確かであって、間違いがないのです。タイミングも正確で、時にかなった、その時にしかない指示を出されます。

 あるクリスチャンのブラジル人サッカー選手を最後に紹介して終わろうと思います。
 1993年、日本のプロサッカーリーグ、Jリーグが開幕したときに、ビスマルクというブラジル人選手がいました。ご存知の方も多いと思います。
ビスマルクは、ゴールを決めた後や、試合終了のホイッスルが鳴った後、片膝をついて眉間をつかみ、神様にお祈りをしていました。彼は熱心なクリスチャンのJリーガー・サッカー選手だったのです。
 ビスマルクは24歳の若さで日本に来たその目的を「主イエス・キリストの証し人として日本に来た」と、言っているほどです。
「牧師は教会で、宣教師は遣わされた国で、クリスチャンは与えられた場所で、イエス・キリストの福音を語り、僕はグランドでイエス・キリストを指し示し、福音に生きるのだ。その時の聴衆は、応援に来られたサポーターなのだ。そこで僕は、僕自身が今仕えているイエス・キリストがどういうお方かをサッカーを通して、言葉や行動で語るのだ。」
そうビスマルクは、サッカーを通してこのイエス・キリストを、大胆に語ろうと決意していたのです。
 ビスマルクは、「僕のすべてはサッカーではない。僕のすべては、イエス・キリストなのだ。」と、日本でプレーし続けました。
ビスマルクは試合に臨む時、常にベストな状態を心掛けていました。それは、ビスマルク自身の最善を主に献げるためだからです。一生懸命に練習すれば良い試合が出来るし、結果的には良いプレーができ、イエス・キリストを語るチャンスがある。救い主イエス・キリストを多くの人々に話したいし伝えたい、そのために力の限りを尽くして練習し、全試合、精一杯、神様の栄光のためにプレーをしていました。
 ある日の試合前にビスマルクは、控室で祈っていました。
「これからグランドに立ちプレーする僕の全てが、神の国のものでありますように。僕の体は聖霊の宮ですから、僕が生きているのではなく、僕のために命を投げ出して下さった方が生きているのです。この体を通してイエス・キリストの栄光を顕わして下さい。」と、祈っていました。そして、ゴールを決めた時も、その場にひざまずいて「主の栄光がありますように。」と祈っていました。
 試合が終わった時も「神様、試合を守り、導いてくださって感謝します。チームメイトはグランドでとても良い活躍が出来ました。また、怪我もなく守って下さったことを感謝します。そして、僕もプレーを通してイエス・キリストのことを伝えるチャンスができ、神様の栄光のためにプレーできたことを感謝します。」と、尽きない感謝と賛美を、グランドにひざまずいて主に献げたのです。
 ビスマルクは、イエス・キリストの福音を伝える宣教師として日本へ遣わされたと確信しています。
ビスマルクは、この救い主イエス・キリストに従い、神の国に属することなら、雑用のボール拾いでも荷物持ちでも何でもやらせて頂きたいと願っていたほどでした。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」とイザヤ書 55章8-9節に記されています。
今起っていることは、我々の目から見れば、困難なことかもしれませんが、必ず意味のあることです。神様の視点は、私たちの視点とは全く異なります。神様は、今だけではなく過去も未来も、すべてを見通しておられるのです。
ローマの信徒への手紙 8章28節には、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」と、記されています。
 神様は私たちお一人お一人にご計画をお持ちです。たとえ現在が苦しみや悲しみや痛みの中にあったとしても、神様を信じて従う者を、神様は決して失望には終わらせません。どんなことでも神様は見事にアレンジして下さり、最後には良き事に変えて下さるのです。ですから私たちはどんな時でも、安心して生きていくことが出来るのです。
 いきなり大きな事をやるのは、難しいです。ルカによる福音書 16節10章に「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」仮にもし出来たとしても、「砂の上に家を建てた愚かな人」のように、崩れるのもあっという間でもろいです。焦ることなく自分のペースで、「岩」というイエス様という土台の上に一歩一歩忠実に人生を建て上げて行きましょう。
 今日のメッセージの説教題は、『継続は力なり』とつけさせて頂きました。大きな事を成す必要はありません。それぞれが今置かれている場所で、与えられた小さな事を一つ一つ忠実に心を込めて行っていくことが大切なのです。
どんな状況であってもどんなときであっても、私たちに必要な知恵と力を下さり、私たちを支え、行くべき道を示して下さるイエス様と共に、これからの信仰生活も一歩一歩忠実に歩んで参りましょう。
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