日曜礼拝(2015年7月26日)
日曜礼拝(2015年7月26日)
    日曜礼拝(三位一体後第八)      2015.7.26

「そんなに頑張らなくてもいいのです」 列王記下7:1〜11

 T導入部
 上芦別教会の愛する兄弟姉妹おはようございます。今日も皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝します。
 先週は、午後からサマーキャンプがありました。皆さんのお祈りのおかげで、楽しいキャンプ、良きお交わりのできたキャンプでした。長瀬兄は、参加しないのにキャンプ委員会の長としてご奉仕して下さり感謝です。参加者は、例年の半分ほどでしたが、インドネシアから野村兄、兵庫県の大久保から梶原修兄、また、初参加の大石姉の弟さん、酒井さんご一家が、大阪から参加して下さいました。キャンプ委員の方々の準備されたプログラム、また満山神学生夫妻の開会礼拝と早天祈祷でのメッセージ、十分に準備されたメッセージで一同恵まれました。二日目は、昨年後藤献一先生から教えていただいたバイブルスタディーの学びで、参加者一同、聖書に顔を突っ込んで話し合いをしたので時間が足りず、あっという間の楽しい聖書の学びでした。
 これから、夏のキャンプがいろいろありますが、神様の創造された自然の中で、神様の愛と恵みをいっぱいいただいて帰って来られますようにお祈りでお支え下さい。
 昨日は、東京オペラシティで、ユーオーディア賛美の夕べがあり参加しました。今回は、22回目で星野富弘さんの世界を歌うということで、星野さんの詩に曲を付けた賛美を紹介して下さいました。青葉台教会からは、バイオリンで柳瀬雄太兄、聖歌隊で保坂律男兄、田宮奈々姉が出演されました。また、スタッフとして数名の方々、関内姉、市原典子姉、坂本姉、中高生では市原恵梨姉と淳之介兄が奉仕されていました。他におられたかも知れません。また、多くの青葉台教会の方々が参加され音楽の素晴らしさに感動しました。
 本当に、オーケストラの演奏、聖歌隊の賛美は耳に心地よく、星野さんの詩も心にズシンときて、信仰が励まされる思いでした。
 梅雨が明けて、毎日が夏の猛烈な暑さの中での生活いかがでしょうか。私たちは、イエス・キリスト様の体なる教会に共に集い、聖書の言葉、神の言葉に耳を傾ける時、み言葉で養われる時が与えられていることを感謝します。今日は、列王記下7章1節から11節を通して、「そんなに頑張らなくてもいいのです」という題でお話ししたいと思います。

 U本論部
 一、神様の言葉に軍配が上がる
 1節はエリシャの預言の言葉です。リビングバイブルには、「小麦粉12リットルと大麦24リットルが、それぞれ300円」とあります。大安売りですね。明日の今頃は、このようにびっくりする値段で売られると宣言します。では、今の値段はと言うと、「ろばの頭一つが15000円、鳩の糞0.5リットルが900円」とあります。サマリアはアラム軍に攻められ、包囲されて大変な状況でした。飢饉のために、母親が自分の子どもを食べるというような状況がそこにはありました。大変な事です。もう、死を待つばかり。明日に対する希望は全くありませんでした。悪くはなっても良くなる状況は何一つなかった。そのような状況の中で、預言者エリシャは、1節のような預言の言葉、考えられないような神の言葉の内容を語りました。
 それを聞いていた、王の介添え人は、「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」と言ったのです。そんなことは絶対に起こるはずはない、と神様の言葉、預言の言葉を否定したのです。今の現実を見る限り、そんな甘い話、ばかげた話は信用できなかった。預言者のたわごととしか聞けなかったのです。
 聖書には、たくさんの約束の言葉が私たちに語られています。日々、聖書に触れながら、聖書を読みながら、信仰を持って読みながらも、私たちは、現実の厳しい状況の中で、マイナスの状況に取り囲まれた中で、神様の約束の言葉をそのまま信じて受け取ることができない事があると思います。「神様そんなこと言ったって、現実は厳しい。不可能だ。」そう思えます。私たちは、この世的に、人間的に、常識的に考えるとそうかも知れません。けれども、聖書を通して語っておられるのは、約束しておられるのは、全能なる神様なのです。私たちを愛するあまりに、イエス様の命を犠牲にしてまで私たちを愛された神様なのです。そのお方が、あなたに約束しておられるのです。その約束の言葉を、自分の考えや知識、常識に立って捉えるのではなくて、神様に対する信仰を持って、神様にお任せして、そのお言葉がそうなると信じて受け取り、神様に期待して歩みたいと思うのです。
 新約聖書に出てくる会堂長のヤイロは、自分の愛する娘が、危篤状態の時、イエス様にすぐに来てもらって、手を置いて祈ってもらえば娘の命は助かると信じていました。けれども、12年間も病気に苦しむ女性のことで、時間がとられ、会堂長の家から使いが来て、「お嬢さんはなくなりました。」と告げました。ヤイロが考えた早く来て、手を置いて祈るという癒しの行程は崩れました。その時、イエス様は彼に、「恐れることはない。ただ信じなさい。」と語られたのです。常識や自分の思いや考えが崩れ去った時、恐れる時、そこから信仰が始まるのです。恐れないで、ただイエス様を信じる。それがイエス様の語ったことでした。エリシャが語った言葉は、それが神様の言葉であるということ以外には、何の根拠もなかったのです。また、人間が納得するというような内容でもありませんでした。

 二、助けは来る不思議な形で神の元から
 サマリアにいる人々は、飢饉のゆえに、悲惨な状況でした。そのような中、エリシャを通して神様の言葉が語られましたが、王の介添え人が語ったことに代表されるように、多くの人々にとって、明日になれば食料品がびっくりするように安くなって、食糧に困らない状況を誰も見ることができなかったのだと思うのです。
 3節を見ると、城門の入口に、重い皮膚病を患う4人の人がいたとあります。重い皮膚病ですから、サマリアの町の人々と一緒に生活をすることはできませんでした。城門の外にいて、中に住む人々から食べ物を分けてもらって、何とか自分たちの生活の維持ができたのです。ですから、サマリアでは、鳩の糞が500グラムが900円という、とてつもない値段、そんな状況で、母親が自分の子どもを食べなければならない状況で、誰もこの4人の重い皮膚病を患う人に対する配慮はできなかった。彼らに何もあげることはできなかったのです。人ことを考える余裕はない。自分の事で精一杯。この4人はサマリアの人々の必要が満たされてこそ、彼らは生きる伸びることができたのです。
 だから、彼らはここにいても死ぬだけだし、アラムの陣営に投稿しよう。生かしてくれればもうけもんで、殺されても一緒だ、と考えて4人はアラム軍の陣営に行きます。するとそこには、誰もいなかったのです。サマリアの町は、アラム軍に包囲されて全滅寸前。サマリアの人々は、アラム軍に取り囲まれていると思っていたけれど、その取り囲んでいるはずの、アラム軍は誰もいなかったのです。なぜ、そんなことが起こったかと言うと、6節、7節です。共に読みましょう。「主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたため、彼らは、「見よ、イスラエルの王が我々を攻めるためにヘト人の諸王やエジプトの諸王を買収したのだ」と言い合い、夕暮れに立って逃げ去った。彼らは天幕も馬もろばも捨て、陣営をそのままにして、命を惜しんで逃げ去った。」
 常識では考えられないことが起こりました。アラム軍は恐怖のゆえに、自分の命の守るために、食料や、金や銀、衣服をそのまま置いて逃げていったのです。
 音は私たちの日常生活では欠かせないものです。昨日のコンサートは素晴らしいもので耳に良かったですね。一昨日の夕方、私は東京におりましたが、ゴロゴロとものすごい雷でした。会議の中で、女性の方がおられましたが両手を耳に当てて、とても怖いというような様子でした。耳に心地よい音もあれば、騒音のようないやな音もあります。音の問題で、近所の方々との争いや殺人事件にまで発展することもあります。
 神様は、アラム軍を追い払うために、この音を用いたのです。戦車の音、軍馬の音、大軍の音を響き渡らせたのです。もうその音だけで、アラム軍は、イスラエルが他国から大勢の兵を雇って攻めて来たと勘違いしたのです。それゆえに、恐怖心がつのり、逃げ出したのです。そして最も弱い存在、最も悲惨な者たちが、今は最も救いに近かったのであり、彼らのこれからの行動が、生き方がサマリアの全住民の救いの糸口ともなるのでした。
 重い皮膚病患っている4人は、そのまま残された食料を食べました。おなかがすいていたので、たらふく食べました。また、金や銀、衣服を運び出して、どこかに隠してまた来て、金や銀、衣服を運び出すということを繰り返したのでしょう。もう、食べても、食べてもなくならない食料、取っても、取ってもなくならない金や銀、衣服、それらのものがアラム軍の陣営全体に満ち溢れていたのです。人間の思いや考えをはるかに超えた神様の業でした。そのような神様の業を私たちも体験できるのです。

 三、いいことは誰かに知らせたい
 9節を共に読みましょう。「彼らは互いに言い合った。「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」」
 この4人だけが、アラムの陣営が空っぽであることを知っていたし、彼らだけが、ごちそうに預かり、おなかいっぱいで、金や銀、衣服を思いのままにしていたのです。けれども、アラムの陣営は、事実空っぽ、誰もいないのに、サマリアの人々は、アラムの軍に包囲されていると思い、精神的にも肉体的にも未だに極限的な苦しい立場にあったのです。
 もう苦しむ必要はない。自分の死を思う必要もない。もう救いは来た。救いは現実のものとなっているのにもかかわらず、その救いを4人以外は誰も知らなかったのです。
 今日は良い知らせの日なのです。良い知らせならば伝える必要があるのです。この4人は、自分たちのしていること、つまり、この祝福、この救いを伝えないで黙っていることは、罰を受けることだから、王家の人々に伝えようと決心したのです。そして、自分たちが経験したことをありのまま話したのでした。
 アラムの陣営には誰もいなくて、食料も、金も銀も、衣服もたくさんあります。4人は、その事を伝えました。最初、王は敵の罠だと思いますが、調べさせたら本当に、陣営には誰もいないで、食料が満ち溢れていたのです。そして、エリシャの預言の言葉の通リに、大安売りとなったのです。
 エリシャの言葉、神の言葉を信じなかった王の介添え人は、「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはできないことはない。」というエリシャの言葉の通リ、大安売りの状況は見ましたが、民に踏み倒されて死んだのです。
 サマリアの人々の命が助けられたのは、重い皮膚病を患っていた4人の人の良い知らせを伝えたことでした。彼らには、病気のゆえに、将来性も希望も見えなかった。ただ、サマリアに住む人々のおこぼれで生きていた。生かされていた、そのような彼らが救いの最も近いところに置かれ、その祝福にあずかりました。そして、それを自分たちだけの良いことにしないで、今も苦しみ続けている人々に伝えた。そのことがサマリアの人々の救いと喜びになったのです。

 V結論部
 私たちは、クリスチャンとして最大の良い知らせ、福音を手にしています。私たちは、この喜びを自分だけのものとして、自分だけが救われていいというのではなく、滅びに向かい、神様の恵みと祝福を知らない人々に、神様の事を伝えたいと思うのです。
 あの重い皮膚病を患った4人は、別に難しいことをしたわけではありません。努力して頑張ったのでもありません。ただ、自分たちが見たこと、経験したことを語っただけでした。頑張ったわけではありませんし、頑張る必要もないのです。
 私たちは、イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さり、尊い血を流し、命をささげて下さった。私たちの犯した過去の全ての罪、現在犯し続けている全ての罪、未来に犯すであろう全ての罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。そのことにより私たちの罪が赦され、魂が救われました。そして、イエス様が死んでよみがえられたことによって、私たちは死んだら終わりの世界ではなくて、永遠の命、天国の道が与えられたのです。私たちは、この福音の恵みをまだ知らない多くの人に伝えたいのです。たとえ伝えられなくても、自分がクリスチャンであること、教会に行っていること、聖書を読んでいること等を何気なく紹介したいと思うのです。
 私たちは現在教会生活をしていることやキリスト教の読み物、青葉台教会のホームページ等、喜んで紹介したいのです。神様に愛されていること、罪深い私を愛して下さるイエス様のことを伝えたいと思うのです。頑張らなくていいのです。あなたのできる範囲で、あなたのスタンツで、良い知らせを今週、誰かに紹介しようではありませんか。
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