![]() 日曜礼拝(2015年12月6日) 日曜礼拝(アドベント第二) 2015.12.6 「二つの顔(名前)を持つ男」 マタイ1:18〜25 T導入部 おはようございます。12月の第二日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝いたします。12月1日の火曜日に、愛する伊東政賢兄が天に召されました。息子さんの賢さんから父が亡くなりました、と連絡いただいてびっくりしました。プタチナビラに入られて、まだ少ししか経っておられず、こんなに早く召されるとは思いませんでした。眠るかのようにして天に召されたようです。痛みも苦しみもなく、イエス様の元に召されて行かれました。明日の前夜式、明後日の告別式のためにお祈り下さい。 昨日は恒例の駅前キャロルが行われ祝福の内に終えられたこと思います。ご奉仕下さった方々、参加して下さった方々に感謝いたします。私は加藤春樹君と千裕さん結婚式に出ておりました。20分という短時間で司式をしましたが、結婚指輪の交換で、春樹君に、「この指輪は、私があなたにとつぐしるしです。」と、間違ってしまい、復唱することになっていたので、春樹君も「この指輪は、私があなたにとつぐしるしです。」と言い、慌てて、私が、「めとることのしるしです」と言い、それを春樹君が「めとることのしるしです」と言って、会衆からどっと笑いが出て、緊張感のあった結婚式がなごんだというか、結婚式を多くしましたが間違ってはいけない、間違いをしました。宣言の時に新婦の名前を間違ったりと散々でした。慣れない結婚式場、決められたプログラムで戸惑ってしましました。けれど、とても素敵な結婚式と披露宴でした。お祈りに感謝します。 さて、今日は、マタイによる福音書1章18節から25節を通して、「二つの顔(名前)を持つ男」と題してお話ししたいと思います。 U本論部 一、神様は苦しみを無駄には与えない マリアは、救い主の母親として神様に選ばれました。先週の受胎告知で見たように、自分の身に起こることがあまりにも信じられないような内容でしたが、「神にできないことは何一つない。」とのお言葉に、自分に自信がなくても、可能性がなくても、環境が整っていなくても、全能なる神様、愛なる神様、常に共におられ、最善に導いて下さる神様を信じて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」と信仰の応答をしたのでした。 マリアは、ヨセフと婚約していましたから、ヨセフは、これからマリアの起こることに一番関係が出てくるわけです。マリア自身は、自分の妊娠が聖霊によるもの、神様によるものだと分かっていました。わかっていたとしても、それは人類の、女性として初めてのことですから、聖霊によると言われても不安や戸惑いがありました。まして、ヨセフは婚約者のマリアが妊娠していることがわかったのですから、おなかが大きくなったのがわかるということです。 ヨセフとしては、まだ一緒に暮らしていないわけですから、「えっ、なんで!」ということでしょう。愛するマリアの妊娠が、聖霊によるということがわからないので、また、彼は、人間としても、律法に生きるにしても正しい人であったので、マリアの妊娠という現実の事柄に困惑し、悩み苦しんだのです。 神様は、マリアには彼女の妊娠が聖霊によるものであることをはっきりと語られました。けれども、ヨセフには、マリアが妊娠する前にも、妊娠してここまで、マリアの妊娠が聖霊によるものであることに関して沈黙しておられたのです。 もっと早く、マリアの妊娠の前に、聖霊による妊娠だとヨセフに語って下さったら、ヨセフは苦しむことはなかったはずです。離縁を考えたりすることもなかったのです。 私たちの信仰生活においても、前もって示していただいていたら、語っていただいていたら、苦しむことはなかったのに、という事柄を経験することがあります。 けれども、神様は無駄なことはなさらないお方です。苦しいことや思い通りにいかない事、絶望にさえ感じられるような経験さえも、神様は無駄に私たちには与えないのです。ヨセフにとってのマリアの妊娠という悪い出来事は、さらにマリアを大切にし、愛するかどうかが試され、ヨセフの苦しみは、マリアの苦しみに通ずるものがあり、救い主誕生の前に、それぞれが神様の前に苦しみ、お互いの事を思い合う、大切な経験だったと思うのです。私たちも今、苦しいことや辛いことを経験しているかも知れません。その苦しみは神様の知らないことではなく、神様の御手の中にあることを覚え、どこまでも神様にすがり、神様に信頼していきたいと思うのです。 二、神様のタイミングは絶妙 ヨセフは、正しい人、愛の人であっただけに、苦しみました。マリアを信じたいけれども、現実の妊娠の事を聞くと信じられない。律法では石打の裁きをしなければならないけれども、そんなことはできない。だから、誰にもわからないようにひそかに離縁して、マリアをどこかに、マリアを知っている人のいない場所、目立たない所に行かせようと考えたのです。 そのように苦渋の決断をし、実行しようとしていた時、天使が夢に現れたのです。神様の介入です。神様の介入の時期は絶妙です。グッドタイミングです。神様は語るのです。 「「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」」 ここで初めて、マリアの妊娠の原因がはっきりしたのです。マリアは裏切ってはいなかった。妊娠は聖霊、神様のみ業であることがわかりました。マリアは男の子を産むので、「イエス」という名前をつけるようにと語られ、その子は自分の民を罪から救う、つまり救い主であることが示されたのです。 マリアの妊娠という現実を突きつけられて、悩み苦しむヨセフに、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」とヨセフのこれからなすべきことが示されました。ヨセフがこれからしようとしていること、マリアのことを表ざたにせず、ひそかに離縁するという行動の正反対の事、マリアを妻として受け入れることを神様は示したのです。 そして、マリアに上になされていること、マリアが男の子を産むことは、旧約聖書の預言の成就であることを示されました。23節、「「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」 神様はヨセフに、み言葉による確信を与えられたのです。 神様は、マリアの妊娠の事で混乱しているヨセフに、マリアの妊娠が神様によるものであること、そして、父親として名前をイエスとつけること、そして、このことは旧約の預言の成就、神様のご計画であることを示したのです。 ヨセフは眠りから覚めると、示された通りにマリアを妻として迎え入れ、これから、マリアと生まれてくるイエス様をしっかりと守っていくようになるのです。 マリアが、神様と言葉に励まされ、支えららえて信仰を告白したように、ヨセフは神様のお言葉を受け入れ、語られた通りに実行し、マリアを妻として迎え、夫として、父親としての働きを全うしていくのです。 三、二重の祝福 今日、この箇所には二つの名前が出てきます。ひとつは、イエス、もう一つは、インマヌエルです。イエス様には二つの顔がありました。「イエス」という名は旧約聖書に登場するモーセの後継者ヨシュアのギリシア語訳「イエスース」から来ています。ヘブライ語では「イェシュア」で、「主は救い」という意味です。旧約時代において、モーセはイスラエルの民をエジプトから救い出しましたが、イエス様はその33年の生涯においてイスラエルの2千年の歴史をもう一度踏み直すという意味がこの名前に込められているようです。イエス様はイスラエルの民に対する「第二のモーセ」と言えます。 「インマヌエル」という呼び名は、イザヤ書7章にあるように、当時のユダの王アハズに語られたもので、神様は信頼に足るお方であることを、神様みずからあかしするひとつのしるしとして付けられた呼び名です。この呼び名は「神は私たちと共におられる」という意味ですが、それは本来、状態を意味するのではなく、「神性(神であること)と人性(人であること)が共にある存在」という意味です。神と人とが一つになったユニークな存在で、その存在の神からの「しるし(サイン)」は「処女から産まれる男の子」でした。 このように、マリアに語られ、ヨセフに語られた男の子、その子は、イエス、人々を罪から救う人物であり、インマヌエル、いつでも共におられるお方なのです。 イエス様は、私たちを罪から救うことのできるお方です。生まれる前から私たち人間の罪を贖う、罪を赦すお方、私たちの持つ罪を赦すために、罪がないのにもかかわらず、私たちの身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。死んで葬られましたが、三日目によみがえり、神であることを示されたのです。ですから、イエス様は十字架で流された血潮とささげられたその命によって、私たちの過去の罪、現在の罪、将来の罪を完全に赦して下さるのです。 また、このイエス様は、私たちと共におられるお方なのです。マリアが男の子を産むと言われ、環境が整っていない、不可能だと戸惑い悩んだ時、あるいは、婚約者のマリアが妊娠したと知り、この事態をどのように解決しようかと悩み、苦しんでいたヨセフと、神様は共におられたのです。 そして、今戦いの中にある私たち、苦しみや悲しみを経験している私たち、痛みと苦難の中にある私たちと神様はいつも共におられるのです。マタイによる1章で、インマヌエル、「神は我々と共におられる」と示されたお方は、マタイによる福音書最後の28章20節では、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、インマヌエルの神の宣言で終わっているのです。初めから終わりまで、イエス様はいつもあなたと共におられるということを私たちは信じていきたいと思うのです。 V結論部 河野進氏という、ハンセン病救援や社会福祉事業にも深くかかわられた牧師先生が、次のような詩を残しておられます。 「病まなければ、捧げ得ない悔い改めの祈りがあり 病まなければ、聞き得ない救いの御言葉があり 病まなければ、負いえない恵みの十字架があり 病まなければ、信じえない癒しの奇跡があり 病まなければ、受け得ないいたわりの愛があり 病まなければ、近づき得ない清い聖壇があり 病まなければ、仰ぎ得ない輝く御顔がある おお、病まなければ、人間でさえありえなかった(『カナの婚宴の葡萄酒』より) 私が病まなければ、私が苦しみ悩まなければ、見つけることのできない人生の深い悟り、があり、大切な生き方があり、信仰があるのです。 インマヌエル「神は我々と共におられる」という信仰は、私たちが苦しみや悩み、痛みや困難の中で、聖書の御言葉、神様の言葉によって、“私の人生は、イエス様が共におられるから、これでいいのだ”と受け入れた人の悟りであり、生き方であり信仰のように思うのです。この信仰が私たちの心の内に生まれることこそ、クリスマスの本当の嬉しさ、本物の喜びなのではないでしょうか。 私たちは、この週も二つの顔を持つお方、イエスというお方、インマヌエルというお方、私たちをどんな罪からも救うお方、そして、いつも共におられるお方として、このお方に目を留め、聖書の言葉、神の言葉に触れて、イエス様と共に歩んでまいりましょう。 |
<<prev 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 next>> |