日曜礼拝(2015年11月15日)
日曜礼拝(2015年11月15日)
   日曜礼拝(三位一体後第24)  2015.11.15

      「関係者以外お断り」 マルコ10:13〜16

 T導入部
 おはようございます。11月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主イエス様を賛美、礼拝できますことを感謝いたします。
 先週は、青葉台教会創立47周年の記念礼拝でした。札幌から日本メノナイト白石教会の大山裕昭先生をお迎えしてメッセージをいただきました。クリスチャンとしてのあるべき姿、姿勢を教えられました。白石教会のために、大山先生ご夫妻、ご家族のために祈り続けたいと思います。
 11月9日に桜井道江姉が天に召されました。102歳でした。先週の創立記念の愛餐会の時、桜井姉の最高齢の記録を作っていただきましょう、と話したところでした。9日の女性会の祈りの課題の対象者は、桜井道江姉でした。皆さんが、桜井姉のために祈っていて下さっていたからこそ、姉妹はやすらかに主のもとに召されていかれました。9日の朝に桜井姉の容体がよくないという知らせをいただきホームに行きました。家内が先に来て、聖書を読み祈りをささげていたようです。「桜井さん」と声をかけると、大きな目を開けて見て下さり、眠りに入るかと思うと痛みがあるのでしょう。目を覚ますというのを繰り返しておられました。痛みが取り除かれるようにとお祈りをさせていただきました。時々、枕元の上を見られて、娘さんのひとみさんに何かを言いたいような、訴えるような感じでした。私は、イエス様がおられて、イエス様が見えて、そのことを伝えようとしていたのではないかと思いました。少し落ち着かれたようなので、また来ますからとホームを後にしました。その日の夕方、桜井道江姉が召されたと連絡をいただき、やはりあの時、桜井姉にはイエス様が見えたこと、イエス様が桜井姉を包み込んでいて下さったことを確信したのです。昨日は、告別式が無事執り行われました。ご家族の上に神様の豊かな慰めがありますようにお祈りしていただきたいと思います。
 さて、今日は「関係者以外お断り」という題です。先週、この説教題が教会の玄関に建てられていて、関東地区のティーンズキャンプの委員会が青葉台であり、委員のある姉妹が、「関係者以外お断り」という看板を見て、入っていいのでしょうか、と質問していました。「すべて重荷を負っている人は来なさい」と全ての人を招いている教会で、「関係者以外お断り」という題はふさわしくないかも知れません。けれども、その題のした下は、どなたも自由にお入り下さい、と書かれていますからおもしろいですね。律法学者を見ても、教会を見ても、この関係者以外はお断り的な事が多いのではないかと思うのです。
 今日は、マルコによる福音書10章13節から16節を通して、「関係者以外お断り」という題でお話ししたいと思います。

 U本論部
 一、祝福を受けたい
 13節には、「イエスに触れていただくために」とあります。マタイによる福音書の平行箇所には、「イエスに手を置いて祈っていただくために」とあります。ユダヤのお母さんの中には、子どもが生まれて最初の誕生日、1歳の誕生日にはラビ(先生)の所に、その子どもを連れて行き、祝福を受けさせていただくというような習慣があったそうです。ですから、親たちは当時の最も有名なラビと思われていたイエス様の元に子どもたちを連れて来て祝福をいただきたかったのです。
 ローマカトリック教会の現在の法王は、ベネディクト16世ですが、テレビなので法王の行くところ人々が群がり、母親が子どもを差し出して手を置いていただくというようなシーンがよくあります。カトリックの最高権威者に手を置いていただく、触れていただくということは名誉なことなのでしょう。イエス様は、それ以上に権威あるお方、あるいは、イエ様を神の子として信じる親たちは、本当に神様の祝福をいただきたいと心から願ったのだと思うのです。
 今日は、礼拝後に幼児祝福式があり、私がイエス様になり替わって手を置いて祈らせていただきます。きっと、親たちも神様の祝福が子どもたちにあるようにとの思いで来ておられることだと思うのです。親が子どもの祝福、幸せを願わないはずはありません。子どもだけではありません。青年でも婦人でも、壮年でも誰でも神様の祝福をいただけます。ですから、お祈りして下さいと積極的に祈りを求めて下さるとうれしいです。やはり、牧師の祈りには効果があると思いますから、私も皆さんの祝福を願っていますので、勿論、毎日名前を挙げて祈っていますが、手を置いて祈ることには、それなりの意味があるように思うのです。

 二、弟子たちの思い違い
 親たちの子どもたちへの思い、そして、イエス様に対する期待が、子どもたちをイエス様の所に連れて来ることを実行させました。素晴らしいことです。けれども、弟子たちは、「この人々を叱った」とあります。ルカによる福音書の平行箇所には、「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。」とあります。親だけで来たのではなく、乳飲み子、あかちゃんも連れてきたことに、弟子たちは叱ったのです。当時は、聖書を見るとわかるように、数に入るのは成人の男性だけでした。女性や子どもは数には入れない。悪い言い方をすれば数に入る資格がないということでしょうか。それが、普通の考え方でした。ルカでは、乳飲み子ですが、マルコは、子どもたちとあります。子どもたちの中には、乳飲み子も、2、3歳も、6歳や、7歳の子もいたのでしょう。親が子どもたちをイエス様の所に連れてきたことを叱りました。子どもたちを叱ったのではなく、子どもたちを連れて来た親を叱ったのです。
 それは、弟子たちのイエス様に対する配慮から出たことだったかも知れません。10章の最初には、ファリサイ派の人々と離縁に対する問答があります。そのようにイエス様は、律法学者やファリサイ派の人々との問答、病んでいる人々への癒しなど大忙しです。疲れているイエス様が子どもたちの叫び声や、予想もつかない行動によって、イエス様がさらにお疲れになるのではないかと心配し、イエス様のことを思って、子どもたちを連れて来た親を叱り飛ばしたのです。
 確かに子どもは元気です。最近は、幼稚園や保育園、学校の近くに住む人々から子どもの声がうるさい、というような苦情があるということを聞きます。以前ではありえなかったことです。子どもの声がするとうれしくなるという人の方が多いと思いますが、自分の生活の中で子どもたちと接することがない人々には、子どもたちの声はうるさいとしか聞こえないのですね。
 弟子たちは、親を叱りましたが、それは当然子どもたちをも否定したのです。うるさいから来るな。向こうへ行けと。関係者以外お断りと言い渡したのです。

 三、イエス様の所に来ていい
 弟子たちの行為に、言葉にイエス様は待ったをかけたのです。皆さんと共に14節を読みましょう。「しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」」 イエス様は、弟子たちの言葉と態度に憤られたのです。あのイエス様がです。怒りを通り越して憤るのです。イエス様のこの憤りは感情的なものではないと思います。弟子たちの態度や言い方がちょっと問題というようなものではなく、あのイエス様を怒りを超えて憤らせる何かがそこにはあったのです。
 詳訳聖書を見ると、子供たちを連れて来た親を叱る弟子たちの態度に、イエス様が「苦痛を覚え」と表現されていました。親が子どもたちをイエス様の所に連れて来たことは、イエス様にとって喜びなのに、幸せなのに、それを妨げられたことが苦痛となったのです。
 私たちの怒りや憤りは感情的なものが多いと思います。カチンと来たというのがそれでしょう。あの人の態度が言い方が気に食わない。腹が立つわ〜ということでしょう。イエス様は、弟子たちの親や子どもたちに対する態度があまりにも愛のない態度、バカにした態度に、「腹立つな〜弟子たち」というのではないのです。
 親たちの願いは、子どもたちがイエス様と一緒に歌うことでもなく、遊ぶことでもありませんでした。手を置いていただくため、触れていただくため、祝福を祈っていただくためでした。イエス様の所へ来ることを誰も禁じることなのできないのです。イエス様は、全ての人々のために来て下さいました。幼子も子どもたちも例外ではないのです。
 子どもたちは、幼子は自分の力では、自分からイエス様の所に来ることはできません。だから、親が連れて来たのです。その子どもたちがイエス様の所に来ることを妨げてはならない、とイエス様ははっきりと宣言されたのです。イエス様にとって、幼子や子どもたちの祝福を願う親の心をよくわかっておられ、祝福したいと感じておられたでしょう。その親の気持ちを知って、子供たちに手を置いて祝福を祈ることはイエス様にとって喜びであり、幸せなひと時だったのです。子どもたちの笑顔がイエス様に力を与えたのでしょう。
 横浜に来て、こころが生まれましたが、こころの笑顔に、その存在に大きな励ましを力を受けたのは何度もありました。
 教会は、大人は認めるけれども子どもは認めない的な所があるように思います。子どもを大人よりも低い存在として見ているような感があります。ですから、大人が集まる集会には、子供は参加させないか、あるスペースにおいやっています。イエス様は、弟子たちの言葉と態度に、そのようなものを見たのではないでしょうか。成人したら一人前。子どもは半人前。でも、イエス様は、「神の国はこのような者たちのものである。」と言われたのです。
イエス様は、ルカによる福音書18章17節では、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言われました。私たち大人も、素直な心で神様の言葉を受け入れるものでありたいと思います。
 イエス様は、子供たちに罪がないといったわけではありません。全ての人に罪があり、その罪を赦すためにイエス様は十字架にかかって死んで下さいました。子どもたちの罪の身代わりにイエス様は十字架で血を流し、命をささげて下さったのです。

 V結論部
 弟子たちは、子供を連れて来た親、そして、子供たちにノーをつきつけました。関係者以外お断りとしたのです。イエス様は全ての人を受け入れて下さるお方です。私たちは、弟子たちのように、あるいは、律法学者やファリサイ派の人々のように、自分に合わない人、仲間だとは思えない人、その他の人々に、関係者お断りというような空気を出していないでしょうか。それは、イエス様が憤りを感じるものであることを忘れてはならないのです。イエス様の元に連れて来ては行けない人はどこにも存在しないのです。
 弟子たちがイエス様のためにと考えてのイエス様の祝福を願ってきた親と子どもたちへの否定は、それがどんな理由であれ、イエス様はご自分との関係を断とうとする働きに、断固抵抗し、全ての人がご自分の所に来ることを願っておられるのです。ご自分の命を懸けてまで愛し、救われた人とかかわることをイエス様は喜びとなさるのです。
 イエス様は喜んで子どもたちを抱き合あげて、喜びに満ち溢れて祝福の祈りをされたのです。私たちも、イエス様が子どものようにと言われたように、親の言葉に忠実に従って行動する子どものように、神様の言葉に喜んで従いたいと思うのです。この週も、イエス様が共におられますから、心配いりません。大丈夫です。聖書の言葉に喜んで従って歩みたいと思うのです。
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