![]() 日曜礼拝(2015年8月30日) 日曜礼拝(三位一体後第十三) 2015.8.30 「あなたはおまけ、あなたには魅力がある」 マタイ10:29-31 ルカ12:6-7 T導入部 皆さんおはようございます。上芦別教会の兄弟姉妹、おはようございます。8月の第五日曜日を迎えました。今日は賛美礼拝として、皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝いたします。 先週は、愛する下川可代子姉と高梨京子姉の地上での最後のお別れの時を持ちました。お二人ともに病院、施設での闘病生活ではありましたが、心の中はイエス・キリスト様の十字架と復活を通して与えられた魂の救いと罪からの救い、永遠の命の恵みを持っておられたので、平安であったことだと思います。肉体的には、痛みや制限があり、思うように動かせない悔しさ辛さがあったと思います。お二人ともに、ご訪問すると「ありがとうございます」と答えられ、イエス様がお二人を支えておられることを感じました。 お二人のご家族の上に、神様の豊かな慰めが与えられますようにお祈りしていただければ感謝です。 今日はマタイによる福音書10章29節から31節とルカによる福音書12章6節、7節を通して、「あなたはおまけ、あなたには魅力がある」という題でお話ししたいと思います。 U本論部 一、神様はあなたを忘れない ルカによる福音書12章6節を共に読みましょう。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。」リビングバイブルには、「雀五羽はいったいいくらか。たったの百円だろうが。こんな雀一羽でさえ、神様はお見捨てにならない。」とあります。 私たちが恐れるのは、自分自身が忘れ去られるということではないでしょうか。元気な時はいいですが、肉体が弱り、病気になり、入院したりホームに入ったりすると、みんな自分のことを忘れてしまうのではないか。覚えてくれていないのではないかと恐れるのです。 先週、亡くなられた高梨京子姉は、脳こうそくで倒れてから、長い年月の入院生活でした。教会の方々は、高梨姉の健康が回復するように、元気になるように、もう一度礼拝を一緒に守られるように、ご家族の上に神様の守りがありますようにと日々祈りをささげ、水曜日には定例の祈り会で兄弟姉妹と共に心を合わせて、心注ぎ出して祈りをささげました。病院へ訪問し、励まして下さった方々もおられます。下川姉も2年間の入院生活の中で、姉妹のために祈り、訪問し、支えて下さいました。今も入院されておられる方、ホーにム入所しておられる方々がおられます、 また、肉体的に弱っておられる方々、礼拝になかなかおいでになれない方々が多くおられます。けれども、誰一人として忘れられている人はいません。かえって、困難の中にあるからこそ、覚えられ、祈られているのです。私たちでさえ、そうなのですから、神様は忘れるはずはないのです。 また、人が孤独を感じるのは、「自分が誰からも必要とされていない」と思う時ではないでしょうか。また、人が自分の命を断ってしまうのは、「自分は不必要な人間だ」と思ってしまう時ではないでしょうか マザー・テレサは、「人間にとって最大の悲惨は、あなたは誰からも必要とされていないと感じることです。」と言いました。誰にでも、「自分が誰からも必要とされていない」、「自分は不必要な人間だ」とふとそんな思いになる時があるのかも知れません。 聖書は、「人は、人のうわべを見るが、神はその内側を見られる」と言っています。うわべというのは、その人の仕事は何か、地位や学歴はあるか、仕事はできるかできないか、容貌はどうかということでしょう。しかし、たとえ地位や学歴がなくても、仕事が思うようにいかなくても、健康を失い、体が不自由でも、そして、前科があったとしても、天地を創造された神様は、私たち一人ひとりの内側や心を見ておられ、「私の目には、あなたは高価で尊い。」と語りかけて下さるのです。人が私のうわべをどのように評価しようとも、神様は私たち一人ひとりを愛し、必要としておられるのです。神様はあなたを忘れないお方なのです。下川姉も高梨姉も、「自分が誰からも必要とされていない」、「自分は不必要な人間だ」と感じたのかも知れない。けれども、神様は、二人を大切な存在として、覚え、支え、導いておられたのです。 イザヤ書49章15節には、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」という神様の言葉があります。ありえない話です。しかし、そのようなありえない状況があったとしても、神様はあなたを忘れることなど絶対にないのです。 二、あなたも適所に置かれるなら マタイによる福音書10章29節には、「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。」とあり、ルカによる福音書12章6節には、「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。」とあります。二羽の雀が一アサリオンですから、四羽の雀が二アサリオンとなりますから、あとの一羽はおまけということになります。二アサリオン用意したら四羽でなく、五羽もくれたということです。たいした価値がないから、一羽おまけしたのだと思います。 当時、雀は食用にされていたようです。商売人は、捕えた雀を分けて、その顔を見て、売れるか売れないかを判断し、売れそうにない雀は、おまけとして加えたようです。雀の顔の違いがわかるのですね。違いの分かるコーヒーのコマーシャルがありましたが、雀の顔の違いが分かる商売人でした。私たちは、日本人の顔は、その違いを見分けることができますでしょう。けれども、外人さんの顔は、どの顔も同じに見えるということがあります。見る人が見れば、雀も動物も違いがわかるのでしょう。 アサリオンとは、貨幣の最小単位であったようです。価値として最も小さい単位で売買される雀、しかもおまけにつくようなたいした価値のない雀でさえ、神様は目を留められ、神様のお許しがなければ、死んで地に落ちることはないのです。私たちは、人から忘れられたり、自分の存在を覚えられていないというような時、本当に寂しく、生きている甲斐がないと思うような辛さを感じるのではないでしょうか。 イギリスの詩人、ロングフェローの詩に「建築師」という一篇があります。 「世の中に、無用のものや卑しいものは、ひとつもない。すべてのものは、適所に置かれたならば、最上のものとなり、ほとんど無用のごとく見えるものでも、他のものに力を与えると共に、その支えともなる。わたしたちの建築に供給するために、時の中には、材料がいっぱいなっている。」 皆さんの家には、「この箱は何かに使えそうだ。」「この袋きれいだからとっておこう。」とつい入れ物や押入れにいっぱいになっていることがないでしょうか。物入れどころか、台所の片隅や部屋のあちこちにあふれてしまっているのかも知れません。ところで、「捨て上手」などという言葉がありますが、もし神様が、私たちが物を扱うのと同じような思いで私たち一人ひとりのことを考えたとすれば、どうでしょうか。神様の清さや正しさ、そして能力などで私たち一人ひとりを測られたとすれば、有用で、価値があるからしまってもらえるという人が何人いるでしょうか。小さな事にもくよくよと思い煩い、いらだち、腹を立て、文句を言ってつぶやいたかと思えば、些細なことで落ち込んでみたり、やる気を無くしたり・・・、 また、憎み、ねたみ、偽り、さらに頑固で強情で争い好きで・・・。その上、自分の責任を棚に上げ、人のせいにし、あげくの果ては、神様のせいにしてしまうのではないでしょうか。「どうせ私なんか」とひがんでみたり、劣等感にとらわれてスネてみたりする者が大事に、大切にしまってもらえるのでしょうか。神様は、本来は忘れ去られてしまうような者に対してあなたを忘れない、と言って下さるのです。 私たちは、誰一人として、無目的で生きている人はいません。無意味に生かされている人もいません。一見、社会の迷惑だと思われる人も、また邪魔だと思われる人さえも、それらの人が人として回復される時、その人は、たとえ弱くてもなくてならない人として生きることができるのです。イエス・キリスト様は、私たちを回復させるために来て下さいました。 三、イエス様にある回復がある 聖書が言う罪とは、本来あるべき所から逸脱している、つまり的外れということです。創世記を見ると、神様は、アダムとエバのためにエデンの園を用意し、必要な全てのものを与えられました。しかし、神様との約束を破り、神様と共に生きる行き方ではなくて、自分中心に生きる生き方をして、罪を犯し、エデンの園を追放されました。本来おるべきところから外れてしまいました。けれども、罪を犯した人間はその罪の性質を受け、罪を持ったまま永遠の滅びに向っていました。けれども、愛なる神様は私たちの罪を赦し、救うために、神の子、罪のないイエス・キリスト様をこの地上に送り、私たちが受けるべき罰を十字架で受けて私たちの身代わりに死んで下さいました。そして、三日目によみがえられたのです。そのことによって、神様との断絶が取り除かれ、私たち人間の一切の罪が赦され、永遠の命が与えられたのです。イエス・キリスト様の十字架の身代わりの死を通して、神様と回復し、本来おるべきところにおり、神様と交わることができるようになったのです。 イギリスの詩人、ロングフェローの詩に「建築師」という一篇にあったように、「すべてのものは、適所に置かれたならば、最上のものとなり、ほとんど無用のごとく見えるものでも、他のものに力を与えると共に、その支えともなる。」 本来おるべき所にある人間のすばらしさを語っているように思います。 私たちの心の中にある罪の問題をイエス・キリスト様は解決して下さるのです。イエス・キリスト様の十字架の身代わりの死によって、罪が赦されて新しく造られた者となるのです。ちょうど、ガラクタや古新聞、古雑誌を用いて再び製品が作られるように、イエス・キリスト様は私たちを新しい人生へと導いて下さるのです。 「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」 雀を心にかけておられる神様は、私たち人間を神様の最も近い存在として心に留めて創造されました。だからこそ、私たちのことを忘れる事など絶対にあり得ないのです。乳飲み子の母親が子どもを忘れるような事があっても、胎を痛めて産んだ子どもを忘れるようなことがあっても忘れない、と神様は言われるのです。 「歌を忘れたカナリヤは、うしろの山に捨てましょか。いえいえそれはなりません。歌を忘れたカナリヤは、せとの小藪に捨てましょか。いえいえそれもなりません。歌を忘れたカナリヤは、柳のむちでぶちましょか。いえいえそれはかわいそう。」 この歌の作者は西条八十という方です。彼は、ある教会の礼拝に出席していて、ふと天上を見上げると、天井から吊り下がっているいくつかの電灯の中で、一つだけ球が切れたのか、光を放っていない電球が目に入ったのだそうです。それをジーッと見ていてできた詩だということです。みんなが輝いている時に、自分も輝きたいだろうに、でも輝けないでいる電球の気持ちを考えたら、「そうだ。誰よりも、あの電球自身が一番苦しんでいるんだ。そして、キリストは、輝きたくても輝けない、落ちこぼれたような人間を、きっと愛してやさしく理解なさって、歌えるようにして下さる。」との思いの中から生まれた歌らしいということです。ですから、最後の節は、「歌を忘れたカナリヤは、象牙の船に銀の櫂 月夜の海に浮かべれば、忘れた歌を思い出す。」となっています。歌を忘れたカナリヤなんか捨ててしまえとか、ぶって「歌え!歌え!」と言っても、そんなことで歌えるようになるはずがありません。むしろ、歌えるような状況にしてあげることだという思いやりに満ちた歌なのです。そこに、神様の、イエス・キリスト様の愛と恵みを思い浮かべ、オーバーラップさせて歌ったのであろうということです。 V結論部 ゲーテは、「人間にとって恩を忘れることほど悪いことはない。」と言ったそうです。つい自分一人で何かをしたかのように考えて人からしてもらった恩もそうですが、神様が私たちに与えて下さった数々の恩、恵み、祝福、助けなどを、つい忘れてしまいます。このように、私たちはしばしばいろいろな事を忘れてしまいますが、神様は何一つお忘れになることはありません。もし、神様がお忘れに鳴なったら、大変な事になります。 こんな詩があります。 「神がこの世界を忘れたら たった一日でも忘れたら 太陽を照らすのを忘れたら 夜を昼に変えるのを忘れたら 花を咲かすのを忘れ 小鳥や蜂たちを忘れたら 木々に新鮮な南風を吹かせるのを忘れたら 雨を降らすのを忘れたら 子どもたちに遊び声を与えるのを忘れたら そして、痛みを和らげるのを忘れたら いったいこの世界は、わたしたちは、どうなるだろう もし神が、たった一日でも忘れたとしたら」 神様は、たった一日も忘れずに、私たちにいつも恵みを与え、祝福を与えて下さるのです。 一羽の雀を大切に守られる神様は、私たちを忘れることは絶対にないのです。一人子さえも、私たち一人ひとりのために、十字架に釘ずけにするほど、犠牲にされた神様は、私たち一人ひとりを大切にして下さるのです。 マタイによる福音書10章29節には、「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」とあります。先ほど見ましたように、五羽の雀は二アサリオンで、一羽はおまけです。商売にならないようなおまけの一羽だけれども、父なる神様の許しがなければ絶対に地に落ちることはないのです。では、地に落ちた、死んだ雀は、神様の許しがあったのか、と考えます。この世に存在する不幸や不条理は、神様の許しがあったからそうなったのかともとれるみ言葉です。しかし、この箇所の意味には、「すなわち、落ちる時は神が支えつつ、共に落ちてくれる」があるというのです。雀が人間の手か、他の鳥かわかりませんが、その手にかかって落ちようとしている時、神様はその落ちる雀を支えて下さり、その落ちる雀と共に落ちて下さるのです。雀が人間の手により、殺され、羽をむしられ、焼かれて食べられるように、イエス様も殺され、むしられ、焼かれて下さり、食べられるのです。 まさに、私たちの罪の身代わりに、罪のないお方が十字架につけられ、私たちが血を流す代わりに、イエス様が尊い血を流して下さり、私たちが裁かれる代わりにイエス様が裁かれ、私たちの命が取られる代わりに、イエス様の命が取られたのです。 イエス様は、どこにでもいるような雀、その中でおまけにしかならないような一羽の雀にも目を留め、ご自分の命以上に大切にし、守っておられるのです。聖書は言います。「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」と。 昔、お菓子を買えばおまけのおもちゃがついていました。そのおまけがほしいので、曽於お菓子を買ったという思い出があります。おまけはもうおまけではなく、本体のお菓子よりも魅力があるのです。そして、あなたも魅了があるのです。 あなた自身が自分をつまらない存在、不出来な存在、おまけ、どうしようもない者であると感じても、神様はあなたをそう見てはいないのです。そのようなあなたが、落ちるなら共に落ちて下さるのです。そして、高価で尊い存在として見ておられるのです。あなたは、もうすでのイエス様の十字架と復活のゆえに、神様の目には尊い存在、かけがえのない存在、忘れられない存在なのです。神様の目には魅力的な人なのです。 この週も、この神様があなたと共におられます。大丈夫。このお方は絶対にあなたを見離すことも見捨てることもなさらないのです。安心してイエス様と共に歩んでまいりましょう。 |
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