日曜礼拝(2016年3月13日)
日曜礼拝(2016年3月13日)
     日曜礼拝(受難節第五)       2016.3.13
  
   「愛するあなたと最後のディナー」 ルカ22:14〜30

 T導入部
 おはようございます。3月の第二日曜日を迎えました。受難節、レントの第五日曜日となりました。来週は、受難週となります。今日も、愛する兄弟姉妹と共に礼拝をささげることができますことを感謝いたします。
 皆さんに祈っていただいた第69回年会は無事終わりました。私は理事として初めての年会開催でありました。本当に疲れました。いろいろな意見は、意見としてあっていいのですが、建設的な意見か、否定的な意見か、私はその意見ではなくて、その言葉を語る人を見ていました。イエス・キリストを信じる者たちの集まり、そして、そのキリストの愛と赦し、恵みを語る者の集まりとして、いささか残念な思いもしました。しかし、それが現実であり、自由に語ることは大切な事です。
 私も人間ですから、カチンときたり、その人を良く思わなかったり、私自身が年会を通して、赦された者として、赦し、受け入れるためには、十字架の愛と恵み、赦しと癒しに立っていないとどうしようもないことを教えられました。背後にある多くの方々の祈りに感謝しております。
 年会を終えて、新しい年度に向けての私たちの日本ナザレン教団の歩みが、神様に守られ、支えられ、主ご自身に導いていただく教団として歩ませていただきたいと思います。
どうぞ、主によって立てられました理事者たちのためにお祈り下さい。
 さて、今日はルカによる福音書22章14節から30節を通して、「愛するあなたと最後のディナー」という題でお話ししたいと思います。

 U本論部
 一、イエス様はあなたを愛している
 今日の箇所は、題にあるように主の晩餐、あるいは最後の晩餐と言われる箇所です。レオナルド・ダ・ビィンチは、最後の晩餐という絵画を書きました。イエス様と弟子たちとの十字架の前の最後の食事です。15節には、「イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなた方がたと共にこの過越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」」とあります。ヨハネによる福音書13章1節には、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とあります。
 イエス様は弟子たちを愛して愛し抜かれたというのです。弟子たちのイエス様に対する言葉や行動は、イエス様の思いとは正反対の言葉や態度が多く見受けられます。イエス様は、「まだ理解しないのですか」と思われることが多くありました。イエス様は霊的な事柄、天的な事柄を語られているのに、弟子たちは地上的な事柄、この世の肉的な事柄として受け留めるということが多くありました。ですから、人間的に見ると、愛しにくい弟子たちであったのだと思うのです。
 私たちも、自分の意見に賛成してくれる人や理解してくれる人、良くしてくれる人を受け入れる、愛するということはできるでしょう。イエス様は、そうではない、イエス様とは正反対な意見や行動をする者たち、がっかりしたり、失望するばかりの弟子たちを愛した。愛し抜かれたのです。同じように、イエス様はイエス様の思いとは正反対の言葉や行動する私たちをも、弟子たちと同じように愛して下さるのです。愛し抜いて下さるのです。
 イエス様が私たちを愛するのは、私たちの出来がいいとか、イエス様のお心通りにするとか、信仰が素晴らしいからというのではなく、私たちの側の何かではなく、イエス様が私たちを愛する、愛し抜くというイエス様の意志なのです。イエス様の側の愛なのです。
 私たちを創造し、生かしておられる神様は、イエス様は、私たちの存在そのもの、弱い者、欠けだらけの者であるにもかかわらず、愛して下さるのです。高価で尊い存在として愛して下さるのです。私たちが、たとえ失敗しようとも、罪を犯そうとも、自分が自分をいやになろうとも、イエス様はあなたを愛しておられるのです。愛して下さるのです。
イエス様は、ご自分が愛した弟子たちとの最後のディナーを喜びとされたのです。

 二、最後だから言いたいこと
 よく映画やテレビで、死刑囚の最後の食事は豪華な食事が出ると言われ、いつもとは違って自分の食べたいものがでたら死刑になるというようなことがあります。この最後の食事(Last meal)というシステムは、世界中にあるようです。アメリカでは、やはりステーキやフライドチキンが多いようですが、日本では寿司や天ぷらなどが多いのでしょうか。
 死刑囚でなくても、私たちは愛する者、仲のいい人との最後の食事は、豪華でおいしいものを選ぶに違いありません。思い出に残る食事をと考えるでしょう。送別会と言って楽しい時を持ちます。日本ナザレン教団の年会が終わりましたが、年会の最後には任地が発表されました。転任する先生方とのお別れ会等が各教会で行われることだと思います。
 満山神学生夫妻も3月を持って最後になりますので、27日のイースターでは、お別れ会になります。おいしいお弁当をお願いしたいと思います。
イエス様は、弟子たちを愛して最後の食事をと心から願っておられました。ヨハネによる福音書では、イエス様は食事の席で弟子たちの足を洗われました。イエス様を3度知らないと言ってしまうペトロの足を、また、イエス様を裏切って祭司長たちに銀貨30枚で売り渡すイスカリオテのユダの足を、そして、イエス様が心から願った最後の食事の席でも、誰が一番偉いのかという話題でもちきりの弟子たちの足を、愛を持って洗って下さったのです。
そして、最後の食事で飲む葡萄酒を十字架で、ご自分が流す血として、そして、最後の食事で食べるパンをご自分の体として示し、新しい神様との契約として、イエス様の十字架を記念して聖餐式を行うことを命じられたのです。来週の日曜日、受難週において私たちは、聖餐式の恵みに預かります。
イエス様は、愛する弟子たちとの最後の食事で、聖餐式を行うこと、イエス様が流がされる血と裂かれる肉を葡萄酒とパンに見立てて、イエス様を覚えるという大切な事柄を最後であるがゆえに語られたのです。
 私たちは、愛する者との最後の別れに何を語りますか。今、「あさが来た」という朝ドラでは、主人公あさの甥っ子、姉の次男、結婚式を挙げたばかりの次男が兵隊に行くことになり、最後のお別れのシーンがありました。母親は、やはり体のことを心配した言葉をかけていました。最後の言葉、意外と言えないものです。イエス様の昇天時の最後の言葉は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という言葉でした。イエス様が、いつもあなたと共におられることを感じて下さい。信じて下さい。

 三、身を持って教えられたこと
 イエス様は、最後の食事で最愛の弟子たちと食事をして、大切な聖餐についてのお話しをされました。そして、その後弟子たちのいつも話題の中心であった事柄に触れられたのだと思います。イエス様ご自身、神であるお方であるのにもかかわらず、人となってこの地においでになり、人々に仕えられました。天の位を捨てて人としての歩みをされ、全人類の罪の身代わりに十字架におかかりになるために、人間の世界に来られました。
 そのイエス様の弟子たちは、仕えることや従うことではなく、自分たちがいかに上へ行くのか。誰がイエス様の一番弟子なのか。この世の考えやこの世の目的とまったく同じものを目指していたのです。その弟子たちをイエス様は、愛されたわけですが、イエス様の十字架を前にした最後の食事の時でさえ、彼らは自分たちの中で誰が一番偉いのかと話し合う弟子たちをイエス様は愛するがゆえに、彼らに語られたのです。
 25節、26節を共に読みましょう。「イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」」リビングバイブルには、「一番よく人に仕える人こそ、指導者になるのだ。」とあります。偉くなりたい、権威が与えられたいと思うことは何も悪くありません。けれども、偉くなるということ、権威を持つということが、自分の思い通りにその地位や権威を使うことや人を動かすこと、また、その地位や立場が人間の誇りとなりその人の価値観を決めるというものではありません。しかし、この世は、人間の世界は、その肩書や地位といったものが、人間の価値を決めてしまったり、偉い人、賢い人と決めつけてしまうことが多くあります。弟子たちは、そのような姿を見ていたのでしょう。感じていたのでしょう。偉くなりたいと思った。力を蓄えたいと思った。そして、人からほまれを受けたいと思ったのです。イエス様が神の権威を持ち、その奇跡的な業や自然さえも支配する力、その言葉の権威に、弟子である自分たちも、その力を持っているかのような錯覚に捉えられ、自分が如何にも偉い者、賢い者であるかのように感じ、偉いことや強いことに関心があったのです。
だから、弟子たちは子どもたちや弱い者、女性に対して厳しい態度であったのです。そのような弟子たちに、イエス様は愛するがゆえに、最後のディナーで語りました。「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」 ヨハネによる福音書では、言ってもわからない彼らに、イエス様は弟子たちの足を洗われたのです。そして、先生であるイエス様が弟子の足を洗ったのだから、互いに仕えることを、実践するように語られたのです。
 27節を共に読みましょう。「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」 イエス様と弟子たち13人の中で誰が一番偉いのか。当然イエス様です。けれども、その一番偉い人イエス様が弟子たちに仕える者、給仕する者のごとく、低くなられたのです。イエス様の弟子ならば、イエス様の弟子らしく、仕える者になるのです。低くなるのです。それが、イエス様の弟子のしるしなのです。偉くなること権威を持つことはイエス様の弟子ではありません。けれども、イエス様は、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」言われたとように、本当に権威のある人は、力のある人は一番若い者のように人々の前に低くなるのです。上に立つ人は、仕える人なのです。仕えて生きるなら、低くなるならば、神様がふさわしい権威を、力を与えられるということだと思うのです。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることを固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:6−9)

 V結論部
 イエス様は、愛する弟子たちとの最後のディナーを楽しみにしておられました。愛する者とも最後のディナー、それはイエス様にとっても、弟子たちにとっても、思い出に残り、記憶に残るものとなったことでしょう。だからこそ、イエス様は、その大切な場で、イエス様の十字架で流される血潮、裂かれる体、それを葡萄酒とパンで記念するようにと語りました。キリスト教は2015年間、このイエス様の教えを聖餐式を通して守って来たのであり、これからも、守り続けるのです。
 また、イエス様は最後のディナーで、イエス様に仕えて来られたご自分の姿、しもべとして仕える者こそ、最も偉い人、上に立つ人であることを教えられたのです。私たちも、イエス様の弟子として、イエス様の愛と力をいただいて、隣人に対して仕える者、給仕する者でありたいと思うのです。愛するがゆえに、仕えたいのです。愛するからこそ、仕える者になりたいのです。私たちは、この週も、それぞれに与えられた立場があります。権威があります。それを、ただ人を抑えるということや自分の思い通りにするとおいうことではない、どのような立場に立たされようとも、イエス様の足跡に従って、仕えて生きる者として、この週も歩ませていただきたいと思うのです。
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