日曜礼拝(2015年9月13日)
日曜礼拝(2015年9月13日)
    9月13日 奨励
   題:人には柔和な心で、      聖書箇所;ガラテヤ6:1〜5

 ガラテヤとは、今のトルコです。パウロが第1回伝道旅行の時に宣教したところだと考えられています。ガラテヤ信徒への手紙は、そこの信徒にあてて書いたパウロの初期の手紙と考えられています。パウロが宣教したことと違う考えに影響され、福音から離れている人々を激しい口調で正している怒りの手紙と言ってもいいでしょう。
 パウロと違う教えとは、@パウロは使徒ではない A信仰だけでは救われない。モーセの律法― 特に、割礼、安息日、ユダヤ人以外の人と一緒に食事をしてはならない等の食事律法―を守ることが必要だというものです。これは主の兄弟、ヤコブを中心にしたユダヤ教的キリスト者の教えであります。パウロはこれに対し、イエス・キリストを信ずる信仰だけで救われる(いわゆる信仰義認)、行為は救いの条件ではない。なぜ、それがわからないのかと激しく論じているのであります。ユダヤ教分派から世界宗教へと拡大した、このパウロの考えが、ルター、カルヴァン、ウエスレーへ、そして、今も私どもに受けつがれているものです。
 しかしパウロは行為を無視しているわけではありません。信仰さえあれば何をしてもいいということではありません。福音を信じたもの、救いに与ったもの(クリスチャン)の生活の在り方―いわゆる聖い生活―について述べていることの一つが本日の箇所であります。
 
 間違って(知らないで)罪を犯した人、あるいは何らかの誘惑に負けてしまった人に、どう対応し助言するかを述べています。人の悪口は蜜の味、聞いて優越感をもったり、批判したり、ここだけの話と言って多くの人に話したりすることはよくあることです。他人の過ちを正したり、助言することは大切なことではありますが、なかなか難しいものです。自分では良かれと思って助言したつもりでも相手の心に傷つけることはよくあることです。
 ここでは、そういう人への対応・助言の仕方として、パウロは3つのstepをとれと述べています。まず、@柔和な心で正しなさい、そしてその心をもってA互いに重荷を負いなさい さらにB自分の行いを検討し、自分の重荷を負いなさいと言っています。
 愛の人とは、罪に苦しむ人に対して柔和な心を持って、罪を赦し、何とかしてあげなくてはと思う人です。罪ある人に対して柔和の心を持つことは、あらゆる人に対しても柔和な心を持つことでもあります。謙遜に自分もいつか罪を犯すことがあると思い、自分を罪びとと自覚することで初めて他人を赦し、正せるというのです。柔和な心とは自分を罪あるものとして自覚し、そのうえで、その人の罪を知りその人と同じ立場に立つことだとも言えます。それができてはじめて、正し、助言ができるのだというのです。
この柔和な心は、どうしたら持てるのでしょうか?
パウロは、信仰による生活のためには「霊の導きに従って歩みなさい」(5:16)とすすめており、「霊の結ぶ実は愛であり、柔和であると言っています」(5:22)。柔和な心とは、愛の心でもあり、霊に導かれた生活から出てくるものであるということです。霊、聖霊とはどこからくるのでしょうか?パウロは、「キリストに属しているものは、霊を持っている。神の霊があなた方の内に宿っている限り、あなた方は霊の支配下にいます」(ローマ8:9)と言っています。さらに、パウロは「霊は、弱いわたしたちを助けてくださいます。霊自らが、言葉にあらわせないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ8:26)と言っています。その霊に導かれた人であるとは、まさにキリスト者であり、神の罪の赦しを知っている人であり、自ら罪びとであり、恵みにより救いを受けたことを知っている人であります。この信仰をもつものが、内在している聖霊の働きで、柔和な心に導かれるということであります。

 六本木のグランドハイアットホテルのコンシェルジュに、阿部さんという女性がいます。世界で認められた、日本人唯一のコンシェルジュだそうです。この仕事は、ホテルの宿泊客のすべてのことの相談に乗り解決する役目です。この方が、解決に満足していただくために、大事なこととして挙げていることに興味が引かれました。まず、相手と共感することだと言います。落し物をしたと言われて、“何を落としたの”、“いつまで持っていたの”などとの問いは必要なことではありますが、まずすべきことは“不安ですよね”といって共感し、寄り添ってあげないとお客様と心がつながらない、相手の気持ちを楽にさせることです。相手の立場になって、相手の気持ちと一体になって相手と一緒に考え、行動することだと言っています。なかなか、これを実行するのは難しいことですが、
 こういうのが、柔和な心ということであり、その心を持って互いに重荷を負いなさいと言っているのであります。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」(ヨハネ13:34)。罪に苦しむ人の重荷を負うというだけでなく、自分も重荷があって、それを負ってもらうというのが、互いに重荷を負うことです。他人の重荷を担うというのは、他人の罪を背負って神の前に立つこと。神と罪ある人の間に立ち、その罪を、問題を、背負いながら神に執り成すことであります。そのためには、自分の罪深さを知るとともに他の人の罪をもよく知らなくては、互いに重荷を負えません。

 江戸期の禅僧として有名な良寛さんという人がいました。あるとき、川の渡し場に行き川向こうに行こうとしていました。その船頭は、ならず者で権三と言い、日ごろから良寛さんの評判がいいのに腹が立って、あの乞食坊主のどこがそんなにいいのか今日は意地悪して、化けの皮をはがしてやろう。船が川の半ばに来たところで、船を揺さぶり良寛さんを、振り落してしまいました。溺れそうになっている良寛さんを笑って、ざまあみろとみていたが、死にそうになったのであわてて助けて、救ったのです。すると、ずぶ濡れの良寛さんは、ため息をついてから、「船頭さん、ありがとうよ、お蔭で命拾いしました。お前がいなければ死ぬところだった。おまえは命の恩人じゃ、どうもありがとう」と言われました。その夜、船頭は良寛さんの家を訪ね、「私は本当に悪いやつです。わざと船を揺さぶって、あんな目にあわせました。それを何も咎めず、お礼を言ってくださいました、・・・といって泣き伏したのです。これも、なかなかできないことですが、柔和なこころで罪ある人を正したことなのです。

 カルヴアンは、1節の「不注意にも何かの罪に陥ったなら」を「ある人が、過ちを犯している現場を押さえられたとしても」と訳しています。「現場を押さえられて、いくらでも責めることができる場合であっても、柔和な心を持ってその人が立ち上がるのを助ける」のだと言っています。ヨハネ8章にある“姦淫の女”の話を思い起こします。律法学者、パリサイ人が、姦淫の現場を押さえた女をイエス様の前に連れてきます。この女は、律法の定めだと石打にすることになるが、どうかとイエス様にたずねます。イエスさまは、「あなた方の中で、罪を犯したことのないものがまず、この女に石を投げなさい」というと、これを聞いたものが、一人また一人とたちさった。イエス様は女に、「わたしもあなたを罪に定めない。これからは罪を犯してはならない。」と言われました。私たちには、できない赦しであり、ただし方です。

 私たちは、自分の力だけでは、自分の重荷ですら負えないのであります、他人の重荷などはなおさらであります。ましてや、自分の力だけでは、他人の罪を柔和な心で正し、助言するなどは出来ないのであります。イエス・キリストを信じ、救われているものには、聖霊が宿っていると約束されています。この聖霊が働くよう何時も主を求め、祈ることです。聖霊に導かれていれば、柔和な心がもてると、主は約束しています。私どもの重荷を絶えず担って下さっている主の、十字架により罪赦されていることを思い、主の御言葉に日々導かれ、祈り、私どもを執り成してくださる聖霊に導かれて、その実としての“柔和な心”を持てるよう歩んでいこうではありませんか。
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