元旦初詣礼拝(2016年1月1日)
元旦初詣礼拝(2016年1月1日)
元旦初詣礼拝       2016年1月1日

「びっくりぽんの一年」 列王記上17章1節〜16節

 T導入部
 おはようございます。新年あけましておめでとうございます。2016年の最初の日、元旦初詣礼拝として、神様を賛美し礼拝することから始めることのできる恵みを覚えます。
 2015年の1年間、365日、毎日神様が共におられて私たちの歩みをお守り下さいました。うれしいことも、辛いことも、いろいろな事がありましたが、全てが神様のみ心であったことを思います。
 新しい年、2016年の1年間、365日の毎日の歩みの中に、神様が共におられて、それぞれの歩みを守り、導いて下さることを信じます。
 2016年度の元旦初詣礼拝の聖書箇所は、旧約聖書の列王記上17章1節から16節で、「びっくりぽんの一年」という題でお話し致します。
 昨年はびっくりぽんな出来事はあったでしょうか。新しい年を迎えて、神様が私たちにびっくりぽんな祝福を与えて下さることを期待したいと思います。

 U本論部
 一、カラスがエリヤを養う
 エリヤは神の言葉、預言の言葉をアハブ王に語ります。1節です。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないでしょう。」 イスラエルの神様を捨て、バアルの神を信じるアハブ王に、エリヤは警告するのです。そして、エリヤは、その預言の言葉の通りに、彼自身も干ばつの被害を受けるのです。神様の言葉を預言したエリヤだけは例外で雨が与えられるというのではありません。
 そのようなエリヤに神様は語るのです。ヨルダン川の東にあるケリトの川のほとりに身を隠し、その川の水を飲むように。そして、カラスに命じてエリヤを養う、と言われました。旧約聖書レビ記11章13節から15節には、汚れた鳥の中にカラスがあり、それは汚れていると記されています。神様は汚れた鳥だと律法で言われているカラスを用いてエリヤを養われるのです。鳩ではなくカラスなのです。
 どうせなら、汚れた鳥ではなく清いとされている鳥であればいいのに。できれば、烏ではなく人間の方が良いと感じます。誰がカラスに養わせると言われて安心するでしょうか。期待するでしょうか。喜ぶでしょうか。しかし、神様の答えはカラスに養わせる、ということなのです。エリヤは、神様の言葉を信じて行動するのです。
 エリヤは、カラスが養うことができるかどうかを考えたわけではなかったと思います。カラスがどこから食べ物を持ってくるのだろうかと真剣に考えたわけではないと思うのです。カラスがどうかではなく、カラスに養わせる、と語られた神様の言葉を信じて行動し神様のお言葉に従ったのです。
 私たちは、クリスチャンであっても食って行かなければなりません。出エジプトしたイスラエル人のように、毎朝マナが降るわけではありません。烏や犬が食べ物を持って来てくれるわけではありません。働かなくては食べてはいけません。糧を得るためには、多くの苦労があります。困難や苦しみがあります。我慢しなければならないこともあります。
この世で生きて行くためには、きれいごとでは生きてはいけません。現実の厳しさがあります。昨年も1年間、働いて稼いで食べてきました。厳しい状況は変わりません。そのような中で、神様を信じて行くことに戦いを覚えるわけです。そのような中で、共にいる、あなたを支えると言われる神様の言葉を信頼して生きて来たし、今年も生きて行くのです。
 神様は、語られた通りにカラスを通してエリヤを養わせたのです。カラスは朝に夕に、肉とパンを運んで来てエリヤを養ったのです。

 二、やもめもエリヤを養う
 雨が降らないわけですから、ケリト川も涸れてしまいました。すると、神様はエリヤに語られるのです。9節を共に読みましょう。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」 シドンという場所は、アハブ王の妻イゼベルの出身地であり、バアル信仰の始まりの場所です。エリヤにとっては、敵の陣地で暮らせということです。しかも、ユダヤ人ではなく、異邦人の女性、しかもやもめに養わせると言われました。聖書で言うやもめとは、最も弱い存在、最も力のない者を象徴する名前です。カラスに養わせるというのもどうかと思いますが、やもめに養わせると言われても、やもめとは存在そのものが、誰かに助けてもらわなければ生きていけない人のことです。そんな人にエリヤを養うことができるのでしょうか。
 エリヤにとっては、シドンという土地も、やもめに養わせるということも、心に平安や安心を与えるものではなく、不安と心配を与えるものでした。けれども、エリヤはシドンという土地がどのような場所であるかということよりも、やもめは本当に自分を養うことができるかどうかということよりも、やもめに養わせる、そう語られる神様の言葉を信じて行動したのです。人が誰であろうが、土地が何処であろうが、環境がどうであろうがそれは問題ではないのです。神様の語られる言葉を信じて行動するかどうかなのです。
 エリヤはシドンのサレパテに行きました。そして。町の入口で薪(たきぎ)を拾っているやもめがいたので声をかけたのです。「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください。」 イエス様がサマリアの女性に声をかけたのと同じですね。「水を飲ませてください。」(ヨハネ4:7)と。
 彼女が水を取りに行こうとした時、エリヤは、「パンも一切れ、手に持って来てください。」と言ったのです。厚かましい頼みです。
 彼女は自分の今の現状を話しました。壺の中には一握りの小麦粉と瓶の中にわずかな油があるだけで、自分と息子の食べ物、つまりパンを作って、それを食べてしまえば死を待つばかりだと言いました。とても悲しい現実、厳しい現実がそこにありました。それは、まさにエリヤが神様の言葉を語ったことの結果でもあったのです。
 彼女はエリヤの事を考える余裕なんてありません。自分と子どもの現状、それを分析すればエリヤの事、エリヤのためにパンを作ることなんてあり得ない。彼女は、この状況の中で自分のできる精一杯の事を考えました。けれども、神様は、その悲惨な状況から彼女と息子を助けるためにエリヤを用いようとされるのです。
 困難や苦しみ、痛みを私たちは経験します。昨年も経験したことでしょう。今年も経験するでしょう。そのような危機一髪、お手あげ状態、万事休すと言った状況で、自分に何ができるのかを考えるのではなくて、神様が何をして下さるのかに期待することが大切なことなのです。神様を信じること、神様がなそうとしておられるみ業を信じるのです。
 
三、神様がエリヤを養う
そのような厳しい現実を語る彼女にエリヤは語るのです。「恐れてはならない。」と。恐れと不安でいっぱいの彼女に「恐れるな」というのです。恐れるなと言いながら恐れるような内容を語ります。「まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい、その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。」
 聞いていますか?と言いたいようなエリヤの言葉です。やもめは最後の小麦粉と油で最後のパンを作ってそれを食べて死を待つばかりだと言うのに、エリヤは「まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って」と言う。エリヤのためにパンを作ってしまえば、自分たちの分は作れない。エリヤが食べるか、私たちが食べるか、の二つに一つの道しか残されていないのです。けれども、神様が示された道は第三の道でした。「まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい、その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。」 エリヤも食べて自分たちも食べる道、そのためには信仰が必要でした。エリヤの言うことが本当かどうか、神様の言葉を信じるかどうか、彼女は問われたのです。そして、言われた通リに実行したのです。エリヤは神の言葉を宣言しました。14節を共に読みましょう。「なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」
 彼女は、「まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい、その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。」というエリヤの言葉に従ったというのではなく、「なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」という神様の言葉を信じて、まずエリヤのためにパン菓子を作りエリヤに持ってきたのです。
 15節を共に読みましょう。「やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。」
 エリヤが到着したのは、彼女が最後の油と小麦粉を使いきる前でした。それはエリヤにとって良かったというのではなく、最後のパンを作り、それを食べて死ぬのを待つばかりという絶体絶命の時に、エリヤがやって来たということです。それは、神様がやもめを通してエリヤを養うということだけではなく、エリヤを通して彼女と息子、家の人々を救うためでもあったのです。
 神様の命じられた通りに従って実行した、神様の言葉、聖書の言葉に従って行動してひどい目に遭った、失敗したという人はいないでしょう。けれども、神様の命じられた言葉、神様の言葉、聖書の言葉に従わないで行わなかったがゆえに、ひどい目に遭った、失敗したという人は多くおられるのではないでしょうか。
 サレパテに住むやもめが神様の言葉を信じて、エリヤの言葉の通りに行って神様の祝福を経験したように、神様の言葉、聖書の言葉に従って実行した人に、祝福がなかった、助けられなかったということは絶対にないのです。
 私たちを救うために、私たちを罪から救い、魂を救うために十字架に身代わりにかかり、尊い血を流し、命をささげて下さったように、神様は私たち一人ひとりを愛し、大切にして下さるのです。私たちのために死んで下さり、よみがえり、永遠の命を与えて下さった。このお方、イエス様はあなたを愛し、あなたを最善に導いて下さるのです。

 V結論部
 新しい年を迎えました。昨日の12月31日の零時から新しくなったのですが、自分の置かれている状況に変わりはないでしょう。昨年から心配事や不安なこと、悲しいことや辛いこと、痛いことが続いているのかも知れません。エリヤはシドンに行けと神様に言われました。安全な場所ではなく、イゼベルの出身地、バアル礼拝の中心地、敵の本陣に行けと言われたのです。私たちも、今置かれた場所が、自分の行きたくない場所であったのかも知れません。逃げ出したい場所なのかも知れません。しかし、今置かれた場所が、神様の示された場所、そこが導かれた場所なら、そここそが神様のみ心の場所だと思います。今置かれた場所が、どのような場所であっても、イエス様はあなたと共におられます。カラスに養わせる、やもめに養わせると言われたように、人間的に見て頼りにならないようなものです。しかし、神様がそう語られていることを大切にしたいと思うのです。
 神様はカラスを用いられました。聖書から見たら汚れた動物です。しかし、神様はペトロを通して、「神が清めた」と語れたのです。私たちも神様の前に清くない者です。しかし、イエス様の十字架と復活により、神様に義とされたのです。私たちがどのように罪深く、弱くても、預言者エリヤを養うためにカラスや、やもめを用いられたように、私たちを豊かに用いて下さるのです。こんな私が神様に用いられるのです。びっくりぽんです。
 今年もどのような1年になるのかわかりません。不安や心配があります。厳しい現実と神様との言葉の間で、あのやもめが悩んだように、最後の持てるものを差し出したら、何も残らない。ただ、自分と息子のため使ったら、あとは死を待つだけ。困難や試練の中で、自分の持てるもので、できることを何かするというのではなく、困難な状況の中で神様が私に何をして下さるのか。「なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」という神様の約束を信じて行動するのか、神様の言葉に従わないで行動するのか、私たちは新しい年も問われて行くのです。
 私たちを愛し、ご自身の命までささげて下さったイエス様は、私たちの現実の苦しみや悲しみをよく知っておられます。このお方は、新しい年も共におられて、「恐れてはならない」と語り、私たちの必要を満たし、平安を与えて下さるのです。
 神様は私たちにこの1年、多くの恵みと祝福を用意しておられ、びっくりぽんの1年として下さるのです。今がどのような所に置かれていようとも、イエス様が共におられます。大丈夫の神様が、この1年もあなたを守り導かれるのです。
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