日曜礼拝(2016年1月10日)
日曜礼拝(2016年1月10日)
   日曜礼拝(公現後第一)     2016年1月10日
      
    「不良クリスチャンと呼ばれて」 ルカ2章41節〜52節

 T導入部
 おはようございます。1月の第二日曜日を迎えました。2016年を迎え10日目になりました。今年も早いもので355日を残すこととなりました。良き正月を迎えられたでしょうか。寝正月だったでしょうか。正月早々、いろいろな問題が起きたでしょうか。新しい年を迎えても相変わらず、事件や事故が起きています。私たちの現実の生活には、いろいろな出来事が起こりますが、私たちは、この現実の中に働いて下さる神様にしっかりと目を留めて、聖書の言葉に触れて、聖書の言葉こそ霊的な成長を与えるものであると信じて、聖霊の導きに従って歩ませていただきたいと思います。
 明日は成人式です。今日も二人の青年が成人祝福式を受けられます。20歳、いいですね。若いってしばらしいという歌がありました。皆さんにも20歳の時がありましたし、これから20歳を迎える方々もおられます。三回目の20歳、4回目の20歳を迎えられる方々も、今与えられている時が最高の時として、神様に期待して歩ませていただきたいと思うのです。
 今日の説教題は、「不良クリスチャンと呼ばれて」で、ルカによる福音書2章41節から52節を通してお話ししたいと思います。フエイスブックで、今日の説教題を紹介して下さった満山リベカ神学生も保坂兄も、共に「不良少女と呼ばれて」というドラマの写真を紹介して下さいました。「不良少女と呼ばれて」というドラマは、1984年4月から9月にかけて放映されました。原作は舞楽(ぶがく)者の原笙子さんで、彼女の自伝的小説です。ある事情から非行を重ね、不良のレッテルを貼られた少女が、一人の青年の愛によって立ち直り、民間舞楽(ぶがく)への道を歩み出すまでを描いています。主演は伊藤麻衣子さんです。「あなたさえ生まれなければ」という母親の言葉から非行に走るわけですが、愛によって「人生は必ずやり直しができる」ということを描いています。まさに福音ですね。私たちは、神様の愛、イエス様の十字架の愛によって救われたのです。
 「不良」という言葉を調べると、「質、状態、品行、性質などが良くないこと、状況が悪い状態のこと」とあり、不良行為と言えば、飲酒、喫煙、深夜徘徊、暴走行為とあり、不良品と言えば、生産の上で問題のある製品とありました。
 今日の説教題は、「不良クリスチャンと呼ばれて」としましたが、クリスチャンとして、その信仰が悪い、おかしい、道を外れたという意味ではなく、どのように神様から離れていたとしても「人生必ずやり直しができる」という福音に生かされる者であることを覚えたいのです。

 U本論部
 一、備えの時
 ルカによる福音書は、イエス様の誕生クリスマス物語、律法に従って清めの期間33日がすぎた時の神殿での出来事があり、そして、今日の記事、それはイエス様が12歳になった時のお話しです。イエス様は、ナザレの町で育ち、聖書を見ると、「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」(2:40)のです。リビングバイブルには、「イエスは成長してたくましくなり、年に似合わず賢い子だ、と評判になるほどでした。神も絶えずイエスを祝福してくださいました。」
 今日の箇所は、イエス様の子どもの頃の唯一の記事です。
 イエス様は、ナザレの村で他の子どもたちと同じように、律法を学び、父親の仕事を助け、よく遊んだのでしょうが、やはり特別な面も多くあったのではないかと思うのです。その一つが今日の箇所でもあるのです。
 イスラエルでは、過ぎ越しの祭が最大の祭です。その過越し祭の時は、ナザレからエルサレムへやって来たのです。エルサレムから32キロ以内に住む成人男性は、過ぎ越しの祭に参加しなければなりませんでした。イエス様が12歳となったこの年、両親はイエス様と共に過ぎ越しの祭に参加したのです。イスラエルでは、13歳になると成人式(律法の子となる式)を迎えますから、12歳は律法の子となる準備のための大切な旅であったのです。現代訳聖書には、「ユダヤでは13歳になると、男子は成人式を迎えるので、12歳までに父親はその子に必要な信仰の教育を済ませておかなければならなかった。」(2:41)とあります。
 13歳になると成人、律法の子となりますから律法を守る義務が生じます。ですから、13歳になるまでに、暗記を中心とした律法の学びを完成する必要がありました。13歳になって、律法の義務が課あるので、前もって練習のために12歳の時、過ぎ越しの祭にイエスも同行したのだと思うのです。
 過ぎ越しの祭が終わり帰路についた時、事件は起こりました。イエス様がいなくなった、どこにもいないという状況でした。イスラエルでは、成人男子は成人男子で共に行動し、女性は女性同士で行動しましたから、子どもは自由に行動したのでしょう。ヨセフはイエス様がマリアと一緒、マリアはイエス様がヨセフと一緒にいると思いこんでいたので、
1日分の道のりの後、イエス様のいないことがわかったのです。

 二、見失うことがある
両親は、慌ててイエス様を探し回ります。どんな気持ちだったでしょう。昨年も、子どもたちが失踪するという事件がありました。ニュースで失踪事件が流れると、イエス様どうか元気で見つかりますようにと祈ります。その時、私も親ですから、両親の心はどんなに痛んでおられるのか。苦しんでおられるのかと思います。
私も自分の子どもがいなくなったという経験がありました。スキーに家族で行って、1人いなくなりました。普通の町ならまでいいですが、スキー場です。まだ小さい時でした。
私は、教会の仕事で途中で帰らなければならいことがあり、子どもがいなくなったということで、帰るに帰れないけれども帰えらならければならない状況で、神様が守って下さるように、祈りながら後ろ髪を引かれるような思いでスキー場を去った思い出がありました。それは親として心配で、心配でたまらないことでした。子を持つ親として、そのように子どものために心配することがあります。
ヨセフとマリアもそうだったことでしょう。何を置いてもイエス様を探し続けたのです。食べることも休むこともなくイエス様を探し続けたのです。ルカによる福音書15章にあるように、失われた一匹の羊を探し回る羊飼いのように、神様は神様から離れた私たち一人ひとりを探し回って下さるのです。
元来た道を探しながら、三日目にエルサレムの神殿でイエス様を発見したのです。安心したことでしょう。48節を共に読みましょう。「両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して探していたのです。」」 詳訳聖書には、「心引き裂かれる思いであなたを探していた。」とあります。原語の意味では、「あなたを愛する私たち、両親に対して、どうしてこのようなことをあなたはしたのです。」というような意味があるようです。
 「何をやらかしたの!」とマリアは怒りました。親として当然でしょう。「親に心配かけるようなことをしてこの子は!」とよくドラマや映画に出てくる言葉です。現代でしたら、携帯電話がありますから、「ママ、僕神殿で学者たちと話しているから、心配しないで。」で済むかも知れません。
 ある親は、心配のあまり平手打ちという行動もあり、抱きしめて泣き崩れるということもあるでしょう。イエス様は、12歳の若さで、やらかしたのです。両親に心配をかけたのです。クリスチャンとして生きる私たちも、家族に心配かけることもあり、神の家族、教会の家族に心配をかけることもあり、牧師に心配かけることもあり、神様に心配をかけることもあるのです。今日の説教題は、このイエス様がやらかしたこと、心配をかけたことを通して、「不良クリスチャンと呼ばれて」という題をつけたのです。

 三、今、そして今年は何をすべきなのか
 母親であるマリアさんの言葉、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して探していたのです。」という言葉に対して、12歳のイエス様は答えられました。49節を共に読みましょう。「すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」」 詳訳聖書には、「どうして私をお探しになる必要があったのですか。」とあります。リビングバイブルには、「ところがイエスはすまして、「なぜ探したの。ぼくはぼくの父さんの家(神殿)にいるって、わからなかったのかなあ」と答えました。」とあります。
 イエス様は、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」と言われました。この「当たり前」という言葉は、「必ずすることになっている」とか、「どうしてもしなければならない」という強い意味があるようです。イエス様は弟子たちに十字架と復活のことを何度か話されましたが、その時は「人の子は必ず多くの苦しみを受け、・・・三日目に復活することになっている。」と言われました。
 「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」という言葉は、逆に、「私を探さないということが当たり前だ」というようにもとれるように思います。
 マリアが言った「お父さんもわたしも心配して探していた」の父と、イエス様が言った「わたしが自分の父の家にいる」の父には違いがあります。マリアの言う「お父さん」はヨセフのことであり、イエス様が言った「自分の父」は父なる神様のことでした。ですから、マリアはイエス様が何を言っているのか理解できなかったのです。イエス様は、この時家族としての父はヨセフだけれども、ご自分の父は、父なる神様であることを確信されたのです。そして、ご自分の使命が何であるのかをも悟ったのだと思うのです。
 自分の人生は、父なる神様のみ心に従う人生、全世界の人々の罪を赦し、魂を救うために、十字架につけられて自分の命をささげること、死んで復活することをはっきりとご自分のものとされたのではないかと思うのです。
 イエス様は、そのような大きな使命があることを知りましたが、自分が救世主であることを知りましたが、傲慢になることもなく、ナザレに帰り、両親に仕えられたのです。
父であるヨセフは早くに死んだと言われているので、イエス様は父の仕事を継いで、大工の仕事をして家族を養われたのです。イエス様は、自分が何者であるかを知りながらも、置かれた場所で、家族のために労されたのです。
 私たちも、置かれた場所で、自分が今すべきことを懸命にしていきたいと思うのです。

 V結論部
 イエス様の両親は、イエス様がいなくなった時、見失った時に、何を差し置いてもイエス様を探すことに専念しました。私たちもイエスを見失うことがあります。困難や苦しみのゆえに、イエス様よりも現実に目を奪われることがあります。自分がイエス様を見失っていると気付いたならば、聖書にみ言葉にすがりましょう。何を置いてもイエス様を探し求めて行きたいと思うのです。
 イエス様は、ご自分が救世主であることを悟りながらも、これから約18年間、両親と家族に仕えられました。現実は厳しいものがあります。父に代わって家族を養うためには、多くの苦しみや戦いがあったことでしょう。イエス様は全人類の救い主ではありましたが、従順を学ばれたのです。ヘブライ人への手紙5章8節には、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」とあります。
 イエス様にとって、全ての場所が従順を学ぶ場となりました。イエス様は、人に仕えることによって、神様に仕えることを学ばれました。現実の厳しい中で、人々の不当な扱いや理解してもらえないこと、いろいろな人間関係の苦しみを通して、父なる神様にどこまでも信頼し、従い続けること服従することを学ばれたのです。
 私たちも、クリスチャンとして生きる時、現実の中で、苦しいことや悲しいこと、痛いこと、イエス様を見失うという経験もするでしょう。理不尽なこともあるでしょう。クリスチャンとして恥ずかしい経験があるかも知れない。「クリスチャンなのに何やってんだろう」ということがあるかも知れません。イエス様も現実の厳しさの中で苦しまれました。
だからこそ、私たちの苦しみや痛みを知っていて下さるのです。「あなたの苦しみわかるよ。あなたの切なさ、わかるよ。」そう言って下さるのです。
たとえあなたが、クリスチャンとしての道を外れようが、罪を犯し、失敗をしようがイエス様はあなたの味方です。福音はやり直しがきくのです。どこからでもあなたはやりなおしができるのです。イエス様の十字架と復活、福音によって。「大丈夫、私があなたを支える。守る。」と言われるイエス様と共に、今週も歩んでまいりましょう。
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