![]() 日曜礼拝(2015年6月28日) 日曜礼拝(三位一体後第四) 2015.6.28 「Dr.(ドクター)イエス」 使徒言行録3:1〜10 T導入部 おはようございます。6月の第四日曜日を迎えました。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝させていただけますこと、そして、久しぶりにメッセージを語らせていただけますことを感謝いたします。14日は杉田政志先生、21日は後藤献一先生がメッセージを語って下さいました。 昨日は、役員の研修会がありました。全員出席での良き学びと交わりの時となりました。 今日は、使徒言行録3章1節から10節を通して「Dr.(ドクター)イエス」という題でお話したいと思います。ドクター倫太郎というテレビドラマがありました。精神科医の倫太郎という人のお話で、いろいろな精神的な病で苦しんでいる人といつも共にいると寄り添い、時間をかけて患者の声に耳を傾けて、その心の闇を癒し回復に全力を注ぐ人のお話です。何か、イエス様を垣間見るような、まさに、イエス様こそ、声をかけ、また耳を傾け、寄り添い、神様の愛と恵みで包んで、癒して下さるお方であることを今日も見させていただきたいと思います。 U本論部 一、祈りには力がある ペンテコステ、聖霊降臨日を境に、イエス様の福音が宣教され、多くの人々が救われてエルサレム教会が誕生しました。特に、イエス様の弟子たちを通して、多くの力ある業がなされました。イエス様が弟子たちに約束なさったように、弟子たちは聖霊をいただいて、豊かに用いられる器となったのです。 使徒言行録3章も、弟子たちによる力ある業のひとつです。この癒しの業は、1節にあるように、ペトロとヨハネが、午後の三時の祈りの時に起こったということです。旧約聖書には、預言者エリヤとバアルの預言者との戦い、火をもって答えて下さる神を神とするという戦いがありました(列王記上18章)。バアルの預言者たちが、まず、彼らの神に願い続け、自分たちの体を傷つけて祈っても答えられませんでした。エリヤは、献げものをささげる時間になった時、神に祈り、火をもって神が答えて下さった記事があります。献げものをささげる時とは、礼拝の時であり祈りの時であると思います。 定められた祈りの時間に、神様のみ業が行われたということでしょう。ペトロとヨハネが祈りために、神殿にやって来た時に、癒しの業が行われたのです。 クリスチャンには、特権があります。それは祈りです。イエス様は、弟子たちに祈りについて教えらました。こう祈れと、主の祈りを教えられました。また、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネ14:13~14) 「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16:23~24) 私たちは、イエス様が弟子たちに教えられたように、イエス様の名によって祈り、神様のみ業を体験することができるのです。私たちは、祈りの終わりに、「主イエス・キリストの名によって祈ります。」と言います。私たちは、いつでも、どこでもイエス様の名によって祈ることができます。それと同時に、定められた祈りの時間、特に祈り会の時間を大切にして、共に集い、その時、心を合わせて、イエス様の名によって祈る時、エリヤのように、ペトロやヨハネのように、驚くべき神様のみ業を体験することができるのです。 二、苦しんでいる人の上に神の業が起こる 2節を共に読みましょう。「すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。」生まれながらに足の不自由な男とあります。リビングバイブルには、「生まれつき立ち上がることもできない男」とあります。生まれた時から、重荷を背負っていたということでしょう。 誕生は両親にとって、家族にとって、友人にとって喜びです。子どもの成長も親にとっては喜びです。ハイハイをする。つかまり立ちをする。初めて立った時の喜び。子どもの成長に親は喜びを感じます。しかし、今日登場した男性は、生まれながらに足が不自由、立つことができないとあるので、いつまでたっても立つことができなかった。ハイハイもできなかったのでしょう。それは、両親にとっても苦しみでしたが、本人は他の人のように元気に歩き、走り回るのを経験することができないで、人の元気な姿を見て、がっかりしたり、落ち込んだり、自分の足が不自由であるということを呪ったことでしょう。 イスラエルでは、病気や、悪いことは罪の結果だと言われていました。特に、生まれながらに問題や病気があると特に罪が深いとも考えられ、両親も家族も罪の家として、後ろ指をさされて、つらい経験をしてきたのです。ですから、彼は、身体的にも、精神的にも、宗教的にも約40年間苦しみ続けてきたのです。 聖書にあるように、彼は施しを乞うて生きていたのです。みじめな人生でした。生まれながらに立つことができないのですから、まともな職業につくこともできずにいたでしょう。ただ、誰かに神殿に連れて行ってもらい、神殿に祈りに来る敬虔な人々に、施しを乞うてかろうじて生きていたのです。毎日、毎日、神殿に連れて来てもらい、施しをいただいて帰る。その繰り返しでした。美しい門という神殿の中では、神様に祈りがささげられていましたが、その外では、彼は神様に祈る生活ではなく、人々にお金やものをもらうという人生だったのです。 彼は神様に祈らなかったのでしょうか。祈ったには祈ったでしょう。しかし、彼の現状は一向に変わらなかったのです。そのような彼の人生に、神様は目を留めておられなかったのでしょうか。そんなことはありません。 ヨハネによる福音書9章には、生まれつき目の見えない人に対して、弟子たちが「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」(ヨハネ9:2)とたずねた時、イエス様は、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:3)とお答えになりました。イエス様は、生まれつき目の見えない人に、神の業が現れると言われたのなら、その場におられたなら、生まれながらに足の不自由なこの人にも、同じように、「神の業がこの人に現れるためである。」と言われたのに違いないと思うのです。 私たちが、今どのような苦しみや悲しみを経験していようとも、困難な場所に置かれていようとも、イエス様は、「あなたの上に、神の業が現れるためである。」と宣言されるのです。 三、イエス様はあなたを忘れない 彼は、祈りに来たペトロとヨハネに施しを乞いました。ペトロとヨハネは彼をじっと見ました。そして、「わたしたちを見なさい。」と言ったのです。この男は期待したでしょう。 「わたしたちを見なさい。」とはあまり言いません。そのようなことを言うのには、責任をもって何かをくれるはずです。しかし、この男が期待したようなものではありませんでした。6節を共に読みましょう。「ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」」 ペトロとヨハネの持っていたものとは、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」というイエス様の約束であり、イエス様の愛であり、イエス様の力でした。別の助け主を送ると約束されてペンテコステの日、聖霊を受けたペトロやヨハネは変えられました。イエス様と同じように、神様のみ業を行う者になったのです。 祈りによらなければできないとイエス様から言われたように、ペトロとヨハネは祈りの時を忠実に守り、イエス様の名により神様のみ業を、信仰をもって宣言したのです。 この男は、ペトロの宣言通りに、躍り上がって立ち、歩き出したのです。約40年間歩いたことのなかったこの男は、生まれて初めて自分の足で立ち、自分の足で歩いたのです。どんなにうれしかったでしょう。生涯歩けるとは思わなかった。思ってもみなかった。今日も、いつもと同じように、お金や物を求めた。自分を見つめ、見なさいとまでいうこの人たちに物質を求めた。今日使えばなくなるもの、今日食べてしまえばなくなるものを求めた。しかし、イエスと言う人の名による宣言により歩けた。歩いた。心からの喜びが湧き溢れた。そして、神様に感謝を表し、賛美をささげたのです。 この男を見たのは、ペトロとヨハネでした。しかし、イエス様も見ておられました。ペトロとヨハネの目を通して見ておられました。そして、ペトロとヨハネが、「「わたしたちを見なさい。」と言った言葉は、まさしくイエス様の言葉であり、イエス様がそう語られたのです。そして、彼を癒されたのです。 生まれながらに歩けないという状況は、身体的にも、精神的にも、社会的にも、宗教的にも、苦しみを受け、つらい人生を送って来た。しかし、神様から見捨てられていなかったと感じた。イエス様が生まれつき目に見えない人に語られたように、「神の業がこの人に現れるためである。」とのお言葉のゆえに、彼の上に神の業が現れたのです。 私たちも、いろいろな状況や境遇、痛みや困難の中で、神様に見捨てられていると思われるようなことを経験したかも知れません。今も、その苦しみの真っただ中におられるかも知れません。でも、大丈夫。イエス様はあなたを見捨ててはいません。あなたに目を留め、あなたの上に神の業が現れると宣言し、み業をなして下さるのです。 私たちの罪を赦すために、イエス様は十字架で尊い血を流し、命を与えて下さいました。そのような愛で、今も変わらず愛しておられるイエス様に信頼いたと思うのです。 V結論部 この男は癒されて、神様の恵みを体験しました。ペトロとヨハネを通して、イエス様が、この男に寄り添い、彼の本当の必要を満たして下さったのです。 Dr.倫太郎では、精神科医の倫太郎が精神的に病み、苦しんでいる人々に寄り添い、支え、励まして治療をしました。そして、多くの患者が、時間をかけ、耳を傾け、共感し、寄り添い、お茶を飲みましょう、とお茶を差し出す、倫太郎の思いや姿勢に感動し、感謝し、癒されていくのでした。 イエス様は、癒し主です。体も心も癒して下さるお方です。そして、どのような悲惨な状況や困難を経験しようとも、「神の業がこの人に現れるためである。」語られるのです。 この男は、自分の人生はやり直しがきくとは思いませんでした。もう、あきらめの人生、惰性の人生、ただ我慢して、肉体に必要なものだけが彼の求めるものでした。しかし、イエス様の名によって、福音によって彼は救われ癒されたのです。 杉田政志先生は、福音をわかりやすくお話しして下さいました。1、あなたの人生はやり直しがきく。2、あなたの人生は何が起こっても大丈夫。3、あなたは高価で尊い。あなたは役に立つ存在。4、あなたの人生は初めよりも終わりは良い。 イエス・キリスト様の十字架と復活、つまり福音のみ業は、この4つ、1、あなたの人生はやり直しがきく。2、あなたの人生は何が起こっても大丈夫。3、あなたは高価で尊い。あなたは役に立つ存在。4、あなたの人生は初めよりも終わりは良い。とあなたに宣言しているのです。だから、今がどのようであっても、どのような過去を生きてきたとしても、どんなつらい、悲惨な経験をしようとも、痛みを経験しようとも、苦しみや困難が続いていても大丈夫。イエス様は、あなたを見て、あなたを救い、神の業をあなたの上に確実に現して下さるのです。ですから、心配しないで、イエス様を見つめ、聖書の言葉に信頼して、この週も歩んでまいりましょう。イエス様は、いつもあなたのそばにいて、あなたに寄り添い、あなたを包み、あなたと歩みを共にして下さるのです。 |
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