本当の自由を知ろう
本当の自由を知ろう
10月18日礼拝奨励  
 題: 本当の自由を知ろう!     ガラテヤ5:1、13〜16

 本日の箇所(5:1,13)は、ガラテヤ書のなかで一番大事な言葉だとよく言われています。M、ルターは、此の箇所から宗教改革書として有名な「キリスト者の自由」を書いています。きしくも、10月31日は宗教改革記念日です。1517年10月31日にドイツのヴィッテンベルグ城教会にルターが「95か条の掲題」を掲げた日です。ローマ・カトリックを批判したもので、この日からプロテスタント教会はスタートしたといってもいいと思います。再来年は、500年祭ということでドイツでは、いろいろな行事が予定されているようであります。

 1節、13節でパウロは、私たちが救われたのは、召されたのは、自由を得させるためだと言っています。キリストが私たちを、恵みの賜物として、自由の身にしてくださったのだと。パウロは、この自由を“律法からの自由、開放”という意味で言っています。「 〜してはならない」「〜しなければならない」という律法的行為をまもることは、救いの条件ではない。信仰だけで救われるのだ、そこに律法からの自由があるのだと言っているのです。今日の、わたしたちは、これを“罪からの自由”と言っていいと思います。この自由は、信仰をもったら、罪が赦されているのだから、何をやってもいいということでしょうか?

 ルターが、若いとき、町にぐでんぐでんに酔っ払って道に寝ていた男を見ました。その男にダメでないかそんなに飲みすぎてこんなところに寝ていては、神さまの罰があたるぞと。そうしたらその男がポケットから免罪符をだして神父さん、これがあるから大丈夫だよと言ったという話をしています。
 この話は、笑えない話です。今の社会をみると、この自由は、自己中心的で、人に迷惑かけなければ何をしてもいいのだという風潮があります。恋愛で思いが遂げられないと相手を、殺してしまうという事件がよくおきます。自己の自由を確保するために、他社の自由を制約するという寛容度のない、社会になっています。これは少しおかしいですよね!!

 13節でパウロは、「この自由を肉に罪を犯させる機会にしないで、愛によってたがいに仕えなさい」と言っています。私たちは、常に自己を中心とし、自分に対する利害関係を基準として考え、行動する抜きがたい罪の傾向をもっています。これをパウロは、肉とよび、これに罪を犯させないように、愛を持って互いに仕えなさいと言っているのです。自由が目的そのものになって他の何物も眼中になくなりますと、他を抑圧、強制し、自由がなくなり倫理・道徳もなくなります。
 今日の私たちも、この律法の縛りから解放されているのに、「〜してはならない」「〜しなければならない」という生き方をするなら、そこにクリスチャンとしての喜びはなくなります。
 
 ルターは、この自由を、「@キリスト者は、すべてのものの上に立つ自由な主人であって誰にも服しない Aキリスト者は、すべてのものに仕える僕であって誰にでも服する」と言っています。パウロも、Tコリント9:19で「私は全てのことにおいて自由であるが、すべての人の僕になった」と同様のことを言っています。
 ルカ19章に、取税人の頭で金持ちのザアカイの話があります。この男は背が低かったので、いま評判の男イエス様がエリコにきたと聞いて、ひとめ見ようとしたが、多くの人に邪魔されてみえなかった。それで見るために先回りしてイチジク桑の木にのぼって待っていた。
そこに通りかかったイエス様から、「降りて来なさい、今日あなたの家に泊まりたい」と声を掛けられた。いわば神さまが召命されたのです。ザアカイは、急いで降りてきて、喜んでイエス様を迎えたとあります。イエス様に従い信仰に入ったのです。そして、主よ、私の財産の半分を貧しい人々に施します。だれからかだましとっていたら4倍にして返しますと言ったのであります。

 隣人に愛を注ぎ仕えた姿です。これが愛によって仕えなさいということです。愛は強制されるものでなく自発性に基づくものです。ヨハネ14;15で「もしあなた方が私を愛するならあなた方は私の戒めを守る」と言っています。神さまを、こころから愛する人はすすんで神さまの戒めを守ることができるということです。みなさん、心から神さまを愛しているでしょうか?
 
 「ゴンギツネ」という小学生の国語の教科書に載っている有名な話があります。新見南吉(にいみ なんきち)という人が書いたものです。こんな話です。
 「兵十という名の御百姓さんが、病気の母のためにウナギを取ってきた。いたずらキツネの “ごん”がこれを盗みます。母親が数日後に死亡します。ウナギは母親に食べさせるものだったと知った“ごん”は、後悔します。お詫びのためそれから毎日,山で“栗と松茸”をとってそっと、兵十の家にとどけたのです。ある日、兵十は、家に来た“ごん”を見つけ、このいたずら“きつね”めがといって、火縄銃で“ごん”を撃った、撃たれた“ごん”をみると手に、“栗と松茸”があるのをみて、毎日届けてくれていたのはおまえだったのか!ゴンは、ぐったり、目をつぶったまま、うなずいて死んだという話です。」悔い改めて、他人(隣人)のために報いを求めず仕えていく愛に満ちた話です。
 パウロは、14節で「隣人を自分のように愛しなさい」と言っています。イエス様は、この言葉を第2の掟とし、この前に第1の掟として、「心を尽くし、精神を尽くし,思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」と言っています。(マタイ22:37〜40)神さまへの愛があれば、喜んで神の勧めに従うことができるし、隣人を愛することもできるのです。神さまは,御子をつかわし、我々に十字架で愛を示してくださいました。私たちが神さまを愛する前に、神さまが私たちを愛してくださいました。

 そして神さまは、わたしたちの罪を赦して下さいました。人間は、生まれながらに持っている抜きがたい罪の性質から、いつも罪を犯すのであります。自己中心的考え、行動から私たちが犯す罪を神さまは、一つ一つ赦しているのです。なんと幸いなことでしょう。わたしたちが、この罪赦されていることを心から思うときに、神さまありがとうございます、感謝しますと言えるのであります。神さまを愛し、神さまに全面的に服するものとなる者であります。そして、日々聖書を開き、御言葉を求め祈る生活へと導かれるのです。16節で「み霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」と言っています。御霊はいつも、私たちの助け手、とりなし手として、わたしたちの内にいます。この御霊が働いてくださるように心から祈るのです。その導きに従う生活をしていけば、罪赦され、罪から自由になっていることを思い、神に感謝し、神を愛し、隣人を愛することができるのであります。愛するというのは、自分の価値観、考えで愛するのではなく、相手を相手のために愛することです。
救ったものに神はそのことを望んでいるのであります。
 今週も、御言葉を求め、祈りつつ歩んでいきたいものです。
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