![]() 日曜礼拝(2016年3月20日) 日曜礼拝(受難週)・棕櫚の主日 2016.3.20 「大丈夫、あなたの罪は赦されたから」 ルカ23:32〜43 T導入部 おはようございます。3月の第三日曜日を迎えました。棕櫚の主日、受難週を迎えました。愛する兄弟姉妹と共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝いたします。 今日は、週報にもありますように棕櫚の主日と言いまして、イエス様のエルサレム入城の時、人々はシュロの枝(ナツメヤシ)を道に敷き、手に取ってイエス様のエルサレム入城を歓迎したのです。パームサンデーと言いますが、また、受難週、イエス様の苦しみの週、金曜日には十字架におかかりになるのです。私たちは、この週特にイエス様の苦しみを思いながら、感じながら歩ませていただきたいと思います。今週は、月曜日から土曜日まで、受難週の祈り会が夜に持たれますので、ぜひ、お出で下さり祈りをささげたいと思うのです。 さて、今日は受難週の金曜日のお話し。イエス様の十字架の出来事です。ルカによる福音書23章32節から43節を通して、「大丈夫、あなたの罪は赦されたから」という題でお話ししたいと思います。 U本論部 一、イエス様は私たちの罪のためにとりなされた イエス様は、「されこうべ」と言われる場所で十字架につけられました。「されこうべ」とは、ラテン語では、「カルバリ」、ヘブライ語では、「ゴルゴタ」と言います。イエス様は、この場所で二人の強盗と共に十字架につけられました。三本の十字架が立てられたのです。 この三本の十字架を見ていると、苦しいという漢字を思います。草かんむりは二本の十字架、強盗たちの十字架でしょうか。そして、真ん中にイエス様の十字架が口の上に立っている。この口という字は、墓の入口を指しているのではないか、とも言われることがあるようです。三本の十字架、それは処刑であり、苦しみがそこにはあったのです。 イエス様が、十字架につけられたのはピラトの死刑の宣告によるものでした。しかし、ピラトは、イエス様には罪がないことを確信していました。十字架刑の担当をしていた百人隊長もイエス様に「正しい人」であったと言っています。この後、犯罪人の一人もイエス様に罪がないことを認めています。ですから、イエス様のこの十字架刑は、イエス様の罪の結果ではなく、罪はないのに自ら進んで十字架刑を受けられたということです。罪を犯していないのに、十字架刑を受けられたのです。それは、ご自分の罪のためではなく、全人類の罪のために、私の罪、あなたの罪の身代わりに、イエス様が自ら十字架刑を進んで受けられたのです。それこそが、神様の救いの唯一の道だったのです。 コリント人への第二の手紙5章21節には、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」とあります。 このようにイエス様の十字架の身代わりの死によって、全ての人、どんな人でも救われる世界が始まったのです。34節を共に読みましょう。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 無罪のイエス様を十字架刑にした人々、また、この後にあるように十字架上のイエス様をあざけり、けなし、バカにする人々に対して、神様に背を向け、自分のことしか考えない者たち、全人類の全ての人々のためにイエス様は、父なる神様に赦しの祈りをささげられたのです。何をしているのかわからない人々、何でこんなひどいことをするのだ、と思われる事件があります。罪を持ち本能のままに生きる罪を持つ全ての人々、私のために、あなたのためにイエス様は祈られたのです。 二、十字架刑は神様のおこころ 35節から39節には、イエス様の十字架刑のそばにいた人々の言葉があります。十字架刑を見物していた議員たちは、あざ笑い「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と言いました。 十字架刑の任務に就いていた兵士たちも侮辱して、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」と言いました。イエス様と共に十字架につけられた犯罪人の一人は、ののしって、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と言ったのです。 この人々の共通なことは、誰もがイエス様をあざ笑い、侮辱し、ののしったということと「自分を救え」ということを言ったことでした。 議員たちは、イエス様は多くの人々を救ってきた。病から、悲しみや嘆きから、罪の苦しみから多くの人々を救ったはずなのに、自分は救えないのか。メシアなら救い主なら自分を救えるはずだ、というのです。兵士たちは、イエス様の十字架の上に書かれていたユダヤ人の王という文字を見て、ユダヤ人の王ならその力で、権力で自分を救えるはずだ、と言うわけです。十字架につけられた犯罪人の一人は、メシアならば、自分と同じように十字架に磔(はりつけ)にされていないで、自分とそして同じように磔(はりつけ)にされている我々を救え、というのです。 三者三様、みながメシアのくせに、ユダヤ人のくせにということです。名前だけじゃないか。期待に答えられないメシアに対して、無力なメシアに対して、十字架につけられてしまうようなメシアに対して、本当にメシアなら力を示せ、自分を救えというこということです。しるしを求めたのです。メシアであるという証拠を見せるように要求したのでした。 私たちは、神様を信じる者として神様に祈ります。けれども、なかなか祈りが聞かれないこともあります。私も経験します。「神様が、あなたが神様なら答えて下さい。あなたは全能なるお方なのですから答えて下さい。」とここにいる議員や兵士、犯罪人の一人と同じような祈りをすることがあります。あざ笑ったり、侮辱したり、ののしるということはありませんが、少し、いらいらした気持ちで、神様に文句を言いたいような気持で、祈ることがあるように思うのです。 イエス様は、メシアであるからこそ、十字架にかかられたのです。イエス様がメシアであるからこそ、私たちのために十字架で苦しんで下さったのです。そのことを私たちは、忘れてはならないのです。 三、救われない人は存在しない 40節から登場するもう一人の犯罪人は、議員や兵士、もう一人の犯罪人のように、同じように、メシアなら自分を救え、おれたちを救え、とイエス様をののしっていたのです。けれども、イエス様は自分をののしり、侮辱し、責め続ける人々に反論したり、言い返したりするのではなく、その人々のために、父なる神様に赦しの祈りをされた。自分の言っていること、していることが何もわからないから、そのような事を言う。十字架刑につけるようなことをする。そのようなイエス様の言葉と心に触れて、彼は考えを変えるのです。 同じように十字架刑につきイエス様をののしっている犯罪人に言います。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない。」 自分は今まで、自分の事は棚に上げてイエス様を責めていた。イエス様と共に十字架刑につけられた犯罪人たちは、初めから罪を犯すような人間ではなかったでしょう。自分の生まれた家族の人間関係、父や母から愛情を受けずに育ったかも知れない。痛めつけられてきたのかも知れない。友人や大人たちから理解されず、誤解されて生きてきたでしょう。ですから、自分の問題ではなく、親のせい、社会のせい、大人のせい、と自分以外の人々を責め、自分がこうなったのは、こいつらのせいだ、という生き方をしてきたのです。そして、十字架につけられても、なおそうだったのです。けれども、全人類の罪を負うために、罪がないのにもかかわらず、犯罪人の自分を含めて、周りの全ての人々からあざ笑われ、侮辱され、ののしられようとも、十字架の苦しみをご自分の方から背負い、尊い血を流し、命をささげようとしておられるイエス様の姿に触れて、彼は心が変えられたのです。周りのせいではなく、自分のせいなのだ。自分のしたことにより、この刑を受け死ぬことは当然の報いなんだ。けれども、このお方は違う。メシアなのだ。そう信じたでしょう。 皆さんと共に42節を読みましょう。「そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」と言った。」 私を救って下さいとは言えなかった。自分のような極悪非道な人間は救われるはずがない。救われてはいけないと思っている。だから、救って下さいではなく、「わたしを思い出してください。」こんなおろかな人間が、十字架刑のひとりとしていたことを覚えていてほしい、と願ったのでした。 自分のような人間は、救われるはずがない。救われてはいけないと考えていた犯罪人にイエス様は答えるのです。43節を共に読みましょう。「するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。」 イエス様は、良い行いは何もしなかった。できなかった犯罪人に、自分なんか救われるはずがないと思いこんでいる犯罪人に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されました。今目の前で、流している血、そして、ささげるこの命はあなたのため。そして、この私が十字架であなたの代わりに裁きを受けているので、「もう大丈夫、あなたの罪は赦された。」そのように語られたのだと思うのです。そして、この宣言は、全ての人々に語られているのです。あなたに語られているのです。大丈夫、あなたの罪は赦されたから、と。この赦しを受け取り、この恵みに立ち続けたいと思うのです。 V結論部 神であるお方、聖なるお方、罪のないお方であるイエス様の十字架の死は、どんな人でも救われる世界が始まったことを宣言しているのです。イエス様は死んでよみがえり、救いを完成され、永遠の命、復活の命を与えて下さったのです。 私たちは、今まで過去に自分が犯して来た罪や過ちに対する後悔の念があるでしょうか。全てイエス様の十字架と復活により、過去の罪、現在の罪、未来の罪が赦されていること、罪が解決されていることを信じ感謝したいと思うのです。 また、私たちは現在、今経験する苦しみや悲しみがあります。けれども、イエス様は、この犯罪人に語られたように、どのような罪や過ち、問題があっても、あなたのそばにいて、共にいて、「大丈夫、あなたの罪は赦された。問題は解決する。マイナスはプラスになる」と力強く、権威を持ってあなたに語って下さるのです。 将来に対するいろいろな不安があるかも知れません。死に対する恐れがあるでしょうか。イエス様は私たちの罪のために、十字架にかかり、私たちの罪の身代わりに死んで下さいましたが、三日目によみがえり、復活の命を示して下さったのです。それは、私たちも復活の命に生きるためなのです。 来週は、イースター、復活祭です。主の力が私たちにも与えられます。イエス様がこの週も共におられますから、このイエス様に目を留めて、イエス様と共に歩んでまいりましょう。 |
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