![]() 日曜礼拝(2016年1月24日) 日曜礼拝(公現後第三) 2016年1月24日 「安心して下さい。あなたはイエス様に愛されてますから」ルカ15:1-7 T導入部 おはようございます。1月の第四日曜日を迎えました。40年ぶりの大寒波が日本列島をおおっていて沖縄でも雪が降ったようです。そのような今日の日曜日ですが、私たちは雪からも守られて、礼拝できますことを感謝いたします。先週の月曜日は、雪が積もり、大変な一日でした。出勤や通学で電車もバスも動かず、苦労された方々も多くおられると思います。 暖冬だと思っていましたら、今までにない寒気団という極端な季節で、2016年は気候も、事故や事件も、今までにない出来事が起こりそうな気配もします。けれども、私たちは、私たちを愛し、守り、導いて下さるお方を知り、信じておりますので、このお方に、全てをお任せして歩みたいと思うのです。 今日の説教題は、「安心して下さい。あなたはイエス様に愛されてますから」です。リベカ神学生が、FaceBookで、礼拝の案内、説教題を紹介して下さいます。今週のこの説教題には、最初、明るく元気な安村という人の写真を掲載しておられましたが、途中でイエス様の絵に変わりました。「安心して下さい。履いてますよ」という言葉で芸人の安村という人が下着姿で、その下着を履いていないような格好をして見せるのですが、「安心して下さい。履いてますよ」というのがおちなのです。 今日の説教題は、明るい安村という人のフレーッズを盗んだというか真似したように思いますが、「安心して下さい」というのは、聖書のメッセージです。ですから、真似したのはあちらであって、こちらが先なのです。 今日は、「安心して下さい。あなたはイエス様に愛されてますから」という説教題で、ルカによる福音書15章1節から7節を通して、お話ししたいと思います。 U本論部 一、罪人を招くイエス様 ルカによる福音書15章には、3つのお話しがあります。今日の箇所の見失った一匹の羊の話し、無くした銀貨の話し、そして、有名な放蕩息子のお話しです。失われたものに対する神様の愛、お心を示しています。 このお話しは、イエス様の所に徴税人や罪人が話しを聞こうとして集まって来た時の事です。リビングバイブルには、徴税人や罪人を「あくどい取り立てをする取税人や札つきの悪党」と記しています。イエス様の元にはいつも徴税人や罪人たち、つまり、律法の専門家から見て律法を守れない人、守らない人たちがイエス様のお話しを聞くために集まりました。その時、イエス様は徴税人や罪人たちに話しをするだけではなく食事も共にしていたようです。ですから、2節にあるように、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言ったのです。 ファリサイ派の人々や律法学者たちは、徴税人や罪人と言われる人々、律法を守れない人、守らない人々とは付き合いませんでした。自分たちは、律法を忠実に守り、断食し、献金し、神様に喜ばれる者であるから、律法をないがしろにし、神様に不忠実な人々とは交わらない。交わることにより、私たちも汚れてしまうと忌み嫌っていました。 イエス様の弟子であるマタイは徴税人でした。イエス様は、マタイに「わたしに従いなさい」と言って、マタイはイエス様の言葉に従い弟子となります。マタイはそのことを記念してでしょうか、宴会を開きます。その時、集まった人々は、徴税人や罪人たちでした。イエス様も共におられました。ファリサイ派の律法学者たちは、弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と質問した時、イエス様は答えられました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と。自分たちも罪人であるにもかかわらず、その罪を認めないファリサイ派の律法学者たちではなく、自分の罪を自覚し心を痛め、イエス様の元に来る人々のために、自分は来たとイエス様は語られたのでした。 このようにファリサイ派の人々や律法学者は、自分たちは正しい人間であり、律法を守る忠実な人間であり、まじめな者だから神様に受け入れられ、救われると考えていました。今日のお話しは、イエス様のところに話しを聞こうとして集まった徴税人や罪人に語られたのではなく、ファリサイ派の人々や律法学者たちに語られたのです。 イエス様は、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、神様に対する誤った考えを正すために、神様の本心を示すのです。 私たちも、自分が正しくないと、真面目でないと、一生懸命でないと神様に受け入れられない、神様に喜ばれないと思っていないでしょうか。共に今日のたとえ話を通して、神様のお心を見たいと思うのです。 二、あなたを喜ぶイエス様 今日のお話しは、羊を100匹持っている人のお話しです。100匹ですから大きな財産です。毎日、羊を牧草に導き、食べさせ、水のある所に導いていたでしょう。羊は弱い動物ですから、導き手が必要でした。羊飼いは、羊を大切にし、羊に名前を付けていたと言われます。「羊1、羊2」ではありませんよ。「太郎、花子」どうかわかりません。先日、大石姉の家庭集会で、大山克己さん(今日、青葉台教会に入会される大山貴子姉のご主人)が、キラキラネーム110選というのを紹介して下さいました。 最近は、生まれた子どもの名前を普通じゃないといいますか、難しい名前を付ける親が多いようです。男と書いて「アダム」と読むそうです。笑と書いて「えるく」と読みます。 大地と書いて「がいあ」と読む。主将(きゃぷてん)、雷太(さんだ)、奇跡(だいや)、 七音(どれみ)、光宙(ぴかちゅう)、強音(ふぉるて)、聖(まりあ)、夢民(むうみん)、 夢見(ろまん)といろいろありました。案外、名前でいじめに会うということも多くあるようです。 羊飼いはそのような難しい名前は付けないでしょうが、名目をつけるほどに羊を大切にしていたのです。しかし、その大切にしている羊がいなくなったのです。100匹のうち一匹がいなくなったのです。大切な羊です。先ほど賛美しました新聖歌485番は、子ども讃美歌にある歌です。私も教会学校でよく歌いました。物語になっていますね。小さい羊が家を離れて、花咲く野原のおもしろさに帰る道がわからなくなった。夜になると暗くなり、仲間もいない。自分を導いてくれる羊飼いもいない。メーメーなくしかない。けれども、情けの深い羊飼いは羊の後を追い、山々に登り、谷底まで降りて迷子の羊を探します。そして、羊飼いは迷子の羊を見つけ、羊を肩に抱いて帰る。羊は当然喜びますが、羊飼いは大いに喜ぶのです。 羊飼いは、帰って来て迷子の羊が見つかったので共に喜んでくれと宴会を開いたのでしょう。そんな一匹の羊が見つかったというぐらいで、そこまでしなくてもと思われるかも知れません。放蕩息子の話しでは、父親は帰って来た息子のために宴会を開きました。父親は、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と言いました。羊飼いも同じです。名前を付けるほど大切な存在、その羊がいなくなった。野獣にかみ殺されることもなく、川や谷に落ちて死ぬこともなく、見つかった。本当にうれしい。喜ばしいこと。宴会を開いてみんなで喜んでほしい。これが、神様のお心だということです。 三、あなたのためなら命も捨てるイエス様の愛 羊飼いの喜びは、それは大きなものでした。聖書が強調しているのは、迷子になって寂しい思い、辛い思いをしたけれども、自分を愛してくれる羊飼いの努力によって、愛によって見つけてもらって、本当にうれしい、喜びでいっぱいという迷子の羊の喜びではありません。見つけ出した側の羊飼いの大きな喜び「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」なのです。 皆さんと共に7節を共に読みましょう。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 悔い改めるというのは、キリスト教の専門用語です。カレーを食べて、次は焼き肉を食べるという食べることを改める、食い改めるではなく、自分の罪を認め、神様の愛に答えることでしょう。 しかし、今日の迷子の羊は、反省も悔い改めもしていません。ただ、羊飼いに見つけられて、抱かれて喜んでいる姿がそこにあるだけです。この迷子の羊は、私たちの事です。羊飼いであるイエス様の元を離れ、この世のいろいろなものに魅せられて、傷つき、痛んでいる者です。羊は弱い存在ですから、自分の力では帰ることができません。誰かに、自分を愛してくれる羊飼いに探して、見つけてもらう以外に助かる方法はないのです。私たちが、悔い改めて、反省し、二度としませんと誓ったから赦されるというのではなく、 99匹の羊は迷うことなく、ちゃんとしている。迷った羊は、問題の羊だ。どこかおかしい。変わり者(羊)だ。だから、あんなやつはほおっておこう。勝手にさせたらいい。自業自得だ。あんな不真面目なやつはいてもいなくても同じだ。これがファリサイ派の人々、律法学者の考えでした。けれども、神様は、イエス様は違うのです。しょうがないやつだ。反省しろ。悔い改めろ、というのではなく、どのような理由や事情があるかはわからないけれども、群れから離れた理由や問題を考えて、非難するというのではなく、失われた存在、迷子になった存在、その羊を、私たちを愛して、愛してやまないから、大切で、大切であるから、自分がどのように傷つこうが、苦労しようが、疲れようが探し続けるのです。命を懸けて探し出して下さるのです。それが神様の愛、イエス様の愛なのです。 イエス様は、ヨハネによる福音書10章11節で、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と語られました。羊のために羊飼いが命を捨てる。そんなあり得ないのです。あり得ない話しです。けれども、イエス様は、神様であるにもかかわらず、私たち人間の罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。私たちの罪を赦し、魂を救うために十字架で私たちの身代わりに命をささげて下さったのです。 悔い改めるとは、勿論、自分の歩んできた道が神様のお心を痛めた歩み、自己中心的な歩みを反省し、悔いて改めることです。けれども、その前に、神様が私のために、あなたのために、命を与えるために来られたということです。あなたを救うために来られたのです。それは、迷子になって動けなくなって、そこにうずくまるしかない、ただ助けてと叫ぶしかない、あなたの所にイエス様が来て、あなたをそのままで、受け入れ、抱きしめ、肩に乗せて、喜んでいて下さるということなのです。その愛を感じる。その愛を信じることが悔い改めるということの意味だと思うのです。 7節のみ言葉を、リビングバインブルでは次のように訳しています。「迷い出た一人の罪人が神様のもとに帰った時は、少しも迷ったことのない九十九人を合わせたよりも大きな喜びが、天にあふれるのです。」とあります。 V結論部 イエス様は、このたとえ話しを徴税人や罪人に話したのではなく、ファリサイ派の人々や律法学者たちに話したのです。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と弟子たちにイエス様のことを批判し、自分たちの正しさゆえに、真面目であるがゆえに、律法に熱心であるからこそ、神様に認めてもらえる。そして、自分たちとは違う、そうではない、徴税人や罪人は滅びてしまう方がいいと考えていた彼らに、神様の愛は、彼らが批判し、忌み嫌っている彼ら(徴税人や罪人)にこそ、注がれていること、彼らが自分は律法を守れない、律法を守らないダメな人間だ。神様から遠く離れた者だ。神様の恵みなんかいただけるはずがないという所に立ち、イエス様に助けを求める彼らを神様は探し、助け、救って下さるということを、この失われた羊の話しを通して、イエス様は語られたのです。 「安心して下さい。あなたはイエス様に愛されてますから」。あなたがどのような立場であれ、状況であれ、罪の中にあっても、問題を抱えていようとも、不真面目でも、いいかげんでも、自分を情けないと思っても、神様はあなたを愛しているのです。案して下さい。あなたは神様に見捨てられることは絶対にありません。あなたのために命さえ与え、尊い血をあなたのために流されたお方、イエス様にとって、あなたは特別な存在。愛の対象者。高価で尊い存在なのです。 私たちはこのような愛で愛されているのですから、心配しないで、安心して、喜びましょう。そして、私たち以上にイエス様があなたのことを喜んでおられることを認めましょう。この週もこのお方があなたと共におられます。ですから、安心して下さい! |
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