![]() 日曜礼拝(2015年9月20日) 日曜礼拝(三位一体後第十六) 2015.9.20 「老いた時の苦労は買ってでもする」 申命記34:1〜12 T導入部 皆さんおはようございます。上芦別教会の兄弟姉妹、おはようございます。9月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝します。今日の第一礼拝は、中高生の皆さんとの合同です。 先週は、岩淵兄が礼拝のご用をして下さいました。私は、熊本ナザレン教会の歓迎礼拝でのメッセージをさせていただきました。前の日の土曜日には、森裕理姉を迎えて、熊本ナザレン教会創立100周年記念のコンサートがホールを借りて開催され、400名近い方々が来られました。半数以上がノンクリスチャンであったようです。賛美とお話し、本当に素晴らしかったです。伝道集会でしたね。 青葉台は今年で、創立47周年でしたね。100周年はまだまだ先ですが、50年を見据えながら、100周年を迎える青葉台教会の姿を思い描きたいと思いました。 さて、今日は高齢者の方々のことを覚える礼拝、明日が敬老の日ということで、私たちは、申命記34章1節から12節を通して、「老いた時の苦労は買ってでもする」という題でお話したいと思います。 U本論部 一、神の言葉に忠実に生きる シルバー川柳というのがあるそうです。「日帰りで 行ってみたいな 天国へ」 「三時間 待って病名 加齢です」 「女子会と言って出かける デイケアー」 「目覚ましの ベルはまだかと 起きて待つ」 「誕生日 ローソク拭いて 立ちくらみ」 「万歩計 半分以上探し物」 「腰よりも 口につけたい 万歩計」 「何回も 話したはずだが 初耳だ」 「孫の菓子 ひとつもらって 諭吉だす」 「深刻は 情報漏れより 尿の漏れ」 「目には蚊を 耳には蝉を 飼っている」 「歩こう会 アルコール会と 聞き間違え」 「ボランティア するもされるも 高齢者」 「聴力の 検査で測れぬ 地獄耳」 「妖精と呼ばれた妻が 妖怪に」 「妻肥満 介護になったら 俺悲惨」 年を重ねていることを笑いにする川柳で、とてもいいと思います。年を取るということは、悪いことばかりではない。年を重ねたからこその恵みもあると思います。聖書は、長寿を神様の祝福のしるしととらえています。後期高齢を迎えておられる方々は、聖書的に見れば神様の祝福なのです。 今日は、旧約聖書の申命記の最後の書34章を開いています。天寿を全うするという言葉がありますが、モーセという人物には、この言葉がふさわしいと思います。ただ、神様の言葉に忠実に従い、神様のお言葉の通りに死んでいったのです。 モーセは、旧約聖書に出てくる偉大な人物のひとりです。教会学校でも、必ず話される人物のひとりです。イエス様が変貌の山で真っ白く輝いた時、そこに一緒にいた人物は、モーセとエリヤでした。モーセは旧約を代表する人物、律法を神様から授かった人物でした。男の子として生まれたら殺されると命令が出されていたエジプトで生まれ、神様の深い導きで王女の子として育ち、40歳の時、同胞のイスラエル人が苦しめられている時、エジプト人を殺し、エジプトから逃亡し、ミデアンの地で結婚し、40年間訓練され、80歳の時、イスラエルの人々を救うためにエジプトに遣わされ、パロ王と対決し、出エジプトし、イスラエルの民を荒野で40年間導いて、今日の箇所ネボ山に到着したのです。 モーセの人生は波乱万丈の人生でした。神様に振り回された人生だったと言ってもいいでしょう。しかし、その神様の言葉に忠実に従い実行した人生だったのです。私たちも、それぞれの人生に、いろいろなことがあるでしょう。どんなことがあっても、聖書の言葉、神様の言葉に従う人生でありたいと思うのです。 二、神の思いを優先する モーセのこの40年間、エジプトからここに来るまでの歩みは苦労の連続でした。紅海の水が分かれた道を歩むという神様の奇跡を体験することも、勿論ありましたが、多くは民の不平不満に付き合い、対処することでした。水がないといえば、神様に聞き水を出す。パンがないといえば、神様に祈りマナが与えられ、肉が食べたいといえば、神様に祈りうずらが与えられと、クレームの電話に応対するオペレーターのように、モーセは民のつぶやきを聞き続けたのです。時には、なぜモーセが偉そうにするのか、と民に云われ、徒党を組んで非難され、共に働いていたモーセの兄アロンと姉ミリアムからも、モーセだけが神様と直接話すのか。我々も話せるのでは、と非難されたこともありました。 また、毎日の人対人の問題や事件の処理もありました。もう、投げ出してしまいたいということもあったでしょう。シナイ山に登り、十戒を授かって山を下りた時、イスラエルの民は、金の子牛の像を作り、これがエジプトから我々を導いた神だと騒いでいたのです。ちょっと油断すれば、神様を忘れ、他の神を作る、そのような民を指導することは大きな苦労があったのです。 ある時、民が飲み水がないとモーセに詰め寄りました。こんな荒野で我々を死なせるつもりかとつぶやきました。モーセが神様に祈ると、神様は岩に命じて、水を出すようにとモーセに言われました。モーセは、今までの民に対する思いが爆発したのでしょうか、なぜ、この岩から水を出さねばならないのか、と杖で岩を二度打ったのです。そして、水がほとばしり出て民は水を飲むことができたのです。しかし、このことは、神様にとって見過ごしにできないことでした。モーセが神様の言葉、岩に命じて水を出せという言葉に従わないで、岩を打って水を出したということで、神様の言葉に忠実に従わないで、神様が聖であることを示さなかったということで、モーセは約束の地、カナンの地には入ることができないと神様に言われたのです。 4節を共に読みましょう。「主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」」リビングバイブルには、「これが約束の国、いつか子孫にこの地を与えると、アブラハム、イサク、ヤコブに約束した国だ。おまえは今ようやくその国を見た。しかし、入ることは絶対に許さない。」とあります。 40年の間、苦労の連続で導いてきた。けれども、約束の地には入れないのです。目標に向かって歩んできたのに達成できないのです。5節を見ると聖書には「主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。」とあります。これが、モーセの地上での最後の忠実な歩みであったのです。 私たちも自分の思い通りにならないことがあります。計画しても達成できないこともおあります。目の前に、それがあるのに手に入らないということもあるでしょう。しかし、全てを導いておられる神様に信頼し、お委ねして、神様に従う道を第一にしたいと思うのです。 三、信仰のバトンを渡す モーセは神様の約束した地に入ることはできませんでしたが、その土地を見ることができました。モーセの心はモーセにしかわかりませんが、モーセはたった一度、神様の言葉に忠実でなかったという理由で、約束の地に入ることが許されませんでした。しかし、モーセはそれを悔いることも、入らせてくださいとお願いすることもありませんでした。神様の約束を見て、感謝したのではないでしょうか。モーセには、約束の土地に足を踏み入れたいという望みはあったかも知れませんが、モーセは自分の思いを優先したのではなく、神様がなさることに従ったのです。 モーセは死んだのですが、7節には、120歳で死んだけれども、目はかすまず、活力もうせてはいなかった、とあります。リビングバイブルには、「モーセは百二十歳の高齢で死んだのに、まだ視力は完全で、体力も若者のようでした。」とあります。この状態でなんで死ぬのかと思います。私は多くの方々の最後を見てまいりました。その中で、目はかすまず、活力が失せていない人は一人もおりませんでした。弱くなって死ぬわけです。ですから、モーセの死は、私たちが弱って、気力がなくなって死ぬというのとはちょっと違うものがあるように思います。 イエス様が死んで葬られたけれども、その墓には遺体はなかった。復活されたからです。そのお墓は、イスラエルに行けば観光地のひとつになり、ここにイエスはおられない、という言葉があります。モーセが死んで、彼の葬られた場所は誰も知らない、というのは、イエス様の遺体がないというのと同じような感じがするんです。そして、そこにイエス様の死と復活の姿があるように思うのです。 モーセの死で終わりではない。申命記の一番最後にモーセの死が記されていますが、これで終わりではない。ここから新しい始まりがあるのです。そして、その始まりに用いられるのが、ヌンの子ヨシュアなのです。ヨシュアは、モーセのそばでモーセの神様に対する姿勢や思いを一番感じていた。モーセから学んだこと、獲得したことが多くあったのだと思うのです。モーセの意志をヨシュアが引き継ぎ、イスラエルの民を約束の地に導いていくのです。それは、モーセの意志がヨシュアを通して全うされるのです。青葉台教会も、この教会に先に導かれ、今日まで神様と教会に仕えて来た方々の信仰、姿を次の世代は見ていますし、感じていることでしょう。やがて、順番に天に召されますが、青葉台教会は、皆さんの信仰が次の世代の人々に受け継がれていくのです。どうぞ、安心して下さい。 V結論部 熊本ナザレン教会の創立100周年記念コンサートで、森祐里さんがお話しして下さいました。姉妹は、アフリカのエチオピアに行かれたそうです。空港から3日間、車に乗りっぱなしである村に着いた。そこには、教会があり、たくさんの子どもたちがいた。みんなの夢は何ですか。医者とパイロットしかないと言っておられたように記憶しています。村の長老さんが言いました。子どもたちの夢は、大人になることです。生きていくことが夢なのです。苦労があっても悲しいことがあっても生きていたいのです。大人になることが夢。そんなの誰だって大人になるじゃん、と思われるかも知れませんが、子どもたちの中は、5歳から8歳までに亡くなる子が多くいるそうです。ですから、大人になる20歳を超えること多くの子どもたち夢。1枚の写真を見せて下さいました。森祐里さんを囲んでいる多くの子どもたち。その笑顔が印象的でした。森祐里さんは言いました。この写真に写っている半分以上は、もう亡くなっていますと。そんな国があるのです。 長寿大国日本では考えられないことです。生きていること、生かされていることが当たり前のことではないのです。しかも、長く生かされていることは聖書が言うように神様の祝福です。長く生きている中には、辛いことも悲しいこともあるでしょう。けれども、生かされてるということは恵みなのです。早く天国へ行きたいなんて言わないで下さい。生きたくても生きることができない子どもたちがたくさんいるのです。勿論、日本にもいるはずです。 「若い時の苦労は買ってでもせよ」これが普通です。若い時にする苦労は、必ず貴重な体験となって将来に役立つものだから、求めてするほうがよい、という意味でしょう。苦難が忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む、とローマの信徒への手紙5章4節にあります。「忍耐によって、私たちの人格は筋金入りにされ、ひいては神様への信頼を深められるのです。こうしてついに、私たちの希望と信仰は、強く、何ものにも動じなくなるのです。」とリビングバイブルは示しています。 でも若い人だけではないですよね。特に、年を重ね、経験を積んでいる方々こそ、苦労を買って、残された人生、み言葉で養われ、祈りを通して神様のみ業を経験し、モーセのように、神様に忠実に歩み、その姿と信仰が次の世代に引き継がれて行ってほしいと思うのです。青葉台教会のために祈っていただきたい。み言葉に触れ、神様に従うことがどういうことかを見せていただきたいのです。イエス様が尊い血を流しご自分の命を投げ出して下さり、死んでよみがえり今も生きていて共におられる。どのような苦しみを経験しようとも、大丈夫だから、と言われるイエス様と共に生きる信仰生活を、年を重ねた方だからこそ、証していただきたいと思うのです。 神様がよしと言われるまで生かされます。モーセは主の命令によって死んだのです。死ぬも生きるも、私たちは神様のものなのです。神様が私たちを守り支えて下さいます。このお方と共に、この週も歩んでまいりましょう。 |
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