日曜礼拝(2016年2月7日)
日曜礼拝(2016年2月7日)
日曜礼拝(公現後第五)       2016.2.7

     「あなたはひとりじゃない」 列王記上19:1〜18

 T導入部
 おはようございます。2月の第一日曜日を迎えました。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝をささげることができますことを感謝いたします。先週は、満山浩之神学生が、「感謝・感激・雨・霰」という題でお話しして下さいました。
 私は、北海道の上芦別ナザレン教会での礼拝で、み言葉を語らせていただきました。上芦別教会の愛する皆さん、おはようございます。先週は、本当にお世話になりました。感謝です。私は、北海道には10回以上行っておりますが、1月の北海道、雪に覆われた北海道は初めてでした。上芦別教会の皆さんとお話ししていて、白一色ですね。白白白ですね。といいましたら、こちらでは銀の世界、白銀の世界と言いますと言われました。白銀の北海道に行ってまいりました。
 上芦別教会は、牧師不在5年目です。牧師のいない教会で5年間、礼拝を守り、教会を支えて来られました。それは大変な事です。また、雪の多い場所で、礼拝を守るということは、そんなに簡単なことではありません。礼拝を守るために、命をかけて集っておられる。その姿勢に本当に教えられました。
 北海道の先生方やその他いろいろな先生方が礼拝のメッセージに来て下さっているようです。しかし毎週ではありませんから、月の半分以上はメッセージのCDで礼拝を守っておられます。青葉台教会の礼拝のCDで礼拝を守っておられます。今日の礼拝も1か月後か2か月後に、上芦別教会の礼拝で用いられると思います。
 マイナスだけを見たら、上芦別教会は、前途多難、厳しい状況です。けれども、私たちは全能なる神様、復活の主を信じています。ですから、神様に期待しましょう。イエス様は上芦別教会を愛しておられます。落ちるところまで落ちたと思って、これからはもう上昇あるのみです。神様が牧師を必ず送って下さると信じて、今から自分たちのできることをしましょう。まず、教会員である私たちが、礼拝を喜び、神様に期待し、神様のみ業を体験させていただきましょうとお励ましをしましたら、皆さん元気になりました。
どうぞ、北の大地上芦別教会のために、愛する信徒の方々のためにぜひ祈り続けていただきたいと思います。
 今日は、「あなたはひとりじゃない」という題で、列王記上19章1節から18節を通して、お話ししたいと思います。

U本論部
 一、人間エリヤの姿
 18章においては、エリヤはバアルの預言者450人とアシェラの預言者400人とに対して、火を持って答える神を神とするという戦いにおいて大勝利、完全な勝利をおさめました。そして、エリヤは異教の預言者たちを殺しました。アハブ王は、エリヤのした事、預言者を剣で皆殺しにしたことを妻イゼベル告げました。イゼベルは、異教の神々をイスラエルに持ち込んだ人物でしたからバアルの預言者を殺した事を根に持ち、時間を指定してまでエリヤの暗殺を企て、エリヤを脅したのです。そんな脅しにエリヤが屈するのでしょうか。18章におけるカルメル山でのエリヤの信仰、勇敢な姿が、イゼベルの脅しなんかには、突っ張ってしまうような力でした。
 しかし、3節を見ると、エリヤの暗殺計画を知ったエリヤは、恐れたのです。そして、逃げたのです。現代訳聖書には、「いのちが惜しくなって逃げ出した。」とあります。大きな戦いの後で、疲れていたということもあるでしょう。精神的にも、疲れていたでしょう。肉体的な疲れや精神的な疲れは、霊的な疲れにつながるものがあります。
 イエス様は、多くの奇跡を行われました。そして、大きなみ業のあとには必ず祈りをなさいました。イエス様は、父なる神様に祈り求める時には、先取りの信仰を持って、父なる神様が自分の祈りに答えて下さることを確信して、感謝して祈りをささげられ、その祈りが答えられました。そして、祈りが答えられ大きな奇跡のみ業がなされた後も必ず祈りをささげられたのです。
私たちは、神様に自分の願いや思いを祈ります。そして、祈らの答えが与えられるまで熱心に祈ります。けれども、祈りが答えられたら、感謝するよりも、祈るよりも、喜び満ち溢れて、祈ることをおこたることがあるように思います。
 イエス様は、特に大きなみ業、奇跡の業をなさった時、そこには油断や隙ができることをご存知でした。クリスチャンが、苦しみや悲しみのゆえに信仰がなくなったとか、信仰から離れたというよりもむしろ、多くのクリスチャンは成功や祝福の後、信仰から離れたり、信仰をなくしたということをよく聞くことがあります。
 エリヤは大勝利を経験しました。完全勝利です。神比べに参加していたイスラエルの人々は、火を持って答えた神様に対して、「主こそ神です。主こそ神です。」(18:39)と言いました。けれでも、バアルの神を捨てて、イスラエルの神様、真の神様に立ち返ったかというとそうではありませんでした。大勝利を経験しながらも、事態はさらに悪くなっているのです。今、エリヤは命を狙われ、逃げているのですから。神様のみ業がなされても、世の中は、世の人は変わらない、という現実の中でエリヤは疲れた。恐れた。絶望したのです。 サタンの声は、私たちをマイナスにいざなうのです。頑張っても無駄だ、信じても何も変わらない。しかし、私たちには福音、イエス様の十字架と復活による望みがあることを忘れてはならないのです。

 二、疲れていたら休みなさい
 エリヤは、イゼベルから逃げます。ベエル・シェバまで南下します。イゼベルの暗殺から安全圏まで来たのです。エリヤは神様に訴えます。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません。」リビングバイブルには、「もうたくさんです。いっそ、このいのちをお取りください。どうせ、いつかは死ぬのですから。」
とあります。エリヤは「死にたい」と言いました。私たちも、人に文句やひどいことを言われたり、辛いこと、悲しいこと、苦しいことがあると「死にたい」と思うことがあるかも知れません。あの大預言者エリヤでもそうだったのです。
 カルメル山で、たった一人で異教の預言者何百人と戦ったエリヤの姿はここにはありませんでした。もう戦う気力もありませんでした。死んだ方がましだと思ったのです。このようなエリヤの姿には、先ほども言いましたが、カルメル山での大勝利が原因の一つであったように思います。
 あの大勝利は何だったんだ。何の実りもない。何をしても無駄だった。ここには、人間エリヤの弱さがありました。ですから、18章でのカルメル山でのバアルとの対決は、エリヤの力ではなく神様のみ業であったということです。それなのに、エリヤはあの大勝利がいかにも自分の功績や力にあったように錯覚をしたのです。自分は大きな働きをしたと勘違いをしたのです。神様の業を自分の責任として、これからも自分の責任で、自分の力で何とかしようとした時、大きな疲れと恐れが生じたのではないでしょうか。自分で頑張ろうとすれば頑張ろうとするほど、落ち込み、自信を無くしていったのではないでしょうか。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません。」となったのです。
 エリヤは神様に訴え、疲れのために寝てしまいました。神様は、死にたいと願うエリヤの気持ちを思い、彼の立場をよくわかっていて下さいました。ですから、疲れているエリヤを休ませ、食事を与えるのです。忙しさのゆえに、睡眠を削ったり、食事を削ることは良い働きができないということを神様はご存知でした。大切な働きのためには、重要な仕事のためには、睡眠不足であってはならないのです。食事を抜いて頑張ってみても、良い仕事はできないのではないでしょうか。神様は焼き立てのパンと水を与えました。「この旅は長い」と言われ、十分な休息と食事を与えられ、エリヤは元気になって40日40夜歩き続けて神の山ホレブに到着したのです。神様は私たちの肉体的な必要をご存知です。疲れている方々はお休みください。睡眠を礼拝で十分とっていただいて結構です。今日は、カレーの日ですから、カレーを食べて元気を出していただきたいと思います。特に頑張っている方々、十分な休息と食事をお勧めいたします。
 
 三、イエス様はあなたとともにいる
 神様は、疲れているエリヤに回復を与え彼を神の山ホレブに導きました。ホレブとは、モーセが神様から十戒を授かったシナイ山の別名です。神様は、神の言葉をモーセに与えた契約の原点にエリヤを導かれました。エリヤはホレブの山の洞穴に入り夜を過ごしました。この記念の場所に導かれた神様は、ご自身の前にエリヤを立たせます。神様は語られました。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」エリヤ自身が今どこに立っているのかを問われたように思います。エリヤは答えます。10節を共に読みましょう。「エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」」
 「情熱を傾けて仕えてきました。」とエリヤは答えました。一生懸命に働いたのです。けれども、自分は熱心だけれども、結果がともなわない。現実は厳しい。本当に神様が共に働いておられるのかと疑問を持たざるを得ない現実がある。むなしく、私一人だけが一生懸命に働いているという無力感がありました。
 日本における宣教も、教会が、クリスチャンが一生懸命に伝道しても、教会には人が来ない。救われない。現実の教会の姿は、だんだんとさびれて行く。私一人だけが頑張っていてもしょうがない。そのような実を見ることのできない日本の教会の現実があります。
 神様は、エリヤの言葉を受け止めて11節で、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われました。「私の前に立て」ということです。私を見なさい。ここに私がいる、ということです。現実はどのようであっても、マイナスに覆われていようとも、この世を見るのではない。厳しい現実を見るのでもない。私を見るのだ、と言われたのです。
 山を裂き、岩を砕く激しい風、地震、火という目に見えるもの、大きく影響するものの中に主はおられなかったのです。その後、静かにささやく声が聞こえたのです。
 エリヤは、カルメル山で大勝利しました。エリヤの祈りに答えて火を持って答えて下さいました。そこに集った全ての人々に、エリヤを通して神様は現れたのです。けれども、そのような目に見える大きな出来事というよりも、そのような奇跡を行うことではなく、神様を見ること、神様の声を聞くこと、神様に聞いていくことが大切であることを、神様はシナイ山律法を授けられた山で、ホレブ山で語られたのです。
 そう語られた神様は、もう一度「エリヤよ、ここで何をしているのか。」と語られました。エリヤは前と同じことを語りました。「わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」 そう言うエリヤに、「行け、あなたの来た道を引き返しダマスコの荒野に迎え」と語り、エリヤのすべきことを語られたのです。そして、神様の働きに遣わすエリヤに語られました。18節を共に読みましょう。「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」 神様の働きは一人でするものでもないし、一人でできるものではない。自分だけが一生懸命だと言うが、共に働く者たちがいる。おまえはひとりじゃない、と語られたのです。
 私たちは、自分ひとりだけでやろうとすれば疲れます。一生懸命にやる人は、自分ひとりだけが頑張っていると周りが見えなくなります。私たちの働きは共に、重荷を負い合うのです。そして、私たちの重荷はイエス様が負って下さるのです。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)
 イエス様は、私たちが負えない罪を十字架で負って下さり、命を懸けて私たちを救って下さいました。イエス様の十字架の死を通して、私たちの罪が赦され、魂が救われ、イエス様が死んでよみがえられることにより、私たちに死んでも生きる命、永遠の命を与えて下さったのです。私たちの望みは、このイエス様にあるのです。

 V結論部
 とても有名な野球選手が覚せい剤使用で逮捕されたニュースは多くの人々に衝撃を与えました。あれほど活躍し、有名になり、多くの若者に夢と希望を与えて来た人物が犯罪を犯したのです。高校生、いや、その前から注目され、活躍し、お金と名誉を獲得しました。
その彼が、引退して、今までの活躍したことが忘れられない。今でのあの時の華やかさや注目されたこと、全力で頑張った野球人生を忘れることができなかった。今の自分の情けなさと寂しさから逃げるために、悪に手を染めたのでしょうか。その栄華を極めた人生に、スキができ、そこに群がる悪い人たちに利用されたのかも知れません。
 人生は、目立つこと、成功すること、人々に注目されること、お金をもうけること、影響を与えることではありません。たとえ、どのような人生を歩もうとも、私たちを創造し、愛し、共におられるイエス様と歩み、イエス様の言葉、神様の言葉、聖書の言葉を聞いて生きることなのです。
 どのような失敗や犯罪や問題を起こそうとも、イエス様は回復を与えて下さるのです。福音を通して、どんな人でもやり直しのきく人生を歩むことができるのです。あなたはひとりではありません。ひとりで悩むことはありません。イエス様は、あなたを、命を懸けて愛し、あなたの人生に生きる価値を見出させることがおできになるのです。
 このお方に目を留め、このお方に、聖書の言葉に聞いて、この週も歩んでまいりましょう。
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