日曜礼拝(2015年8月16日)
日曜礼拝(2015年8月16日)
日曜礼拝(三位一体後第十一)       2015.8.16

「本物を知るためには本物に触れる」 マタイ7:15〜27

 T導入部
 おはようございます。上芦別教会の愛する皆さん、おはようございます。8月の第三日曜日を迎えました。今週も暑さの中にありましたが、神様に守られてこの1週間守られてまいりました。皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝いたします。
 お盆の休みでしたが、お休みはどのように過ごされたでしょうか。海や山、川、子どもたちと出かけられた方々もおられるでしょう。夫婦で釣りに出かけられた方もおられるでしょう。家族やお友達とワイワイと楽しい交わりをされた方々もおられるかも知れません。
 これからお休みに入るという方々がおられるでしょう。お休みでなければできない交わりをされた、これからされるということは神様の大きな恵みだと思います。
 私は、京都で開催された全国ナザレンティーンズキャンプに参加してまいりました。3年前に第一回の全国キャンプが富士箱根ランドで開催され、今年は関西でということで、二回目は京都の北、京北にある京都ゼミナールハウスで行われました。講師は、鹿児島教会の久保木聡先生、ユーモアいっぱいの楽しい、素晴らしいメッセージでティーンズも、スタッフも、心に響き、神様のみ言葉で養われました。
 川原でのバーベキュー、キャンプファイヤー、ウォークラリー、分科会、勿論分級や賛美と熱気ムンムンで楽しいプログラムの中、北は北海道から南は沖縄から集まった者たち、初めて出会う子どもたち、最後の感想では、友だちができるかどうか不安だったけど、すぐに友達になった、と口々に笑顔で語っていました。最終日、全てのプログラムが終わって、また来年来たい、とキャンプが楽しかった、という証だと思いました。皆さんのお祈りに支えられた恵みの多い、祝福されたキャンプでした。
 今日は、マタイによる福音書7章15節から27節を通して、「本物を知るためには本物に触れる」という題でお話いたします。

 U本論部
 一、外側に惑わされない
 偽預言者のことが記されています。旧約の時代も新約の時代も偽預言者がいたようです。旧約の預言者エレミヤは、「平和がないのに、「平和、平和」と言う。」(エレミヤ6:14)、と偽預言者のことを示し、新約のパウロは、エフェソの教会の人々に対して、パウロが去った後、残忍な狼どもが入り込む、と言い、イエス様も弟子たちに対して、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」(マタイ10:16)と言われました。
 このように偽預言者は存在するが、彼らは狼ではなく、羊の皮を身にまとって来ると言うのです。見えるところは、外見は羊の格好をしていて安心させ、その内側は貪欲な狼だと言うのです。人をだます人は、私は人をだまします、というような態度ではありません。腰が低く、やさしく、温厚で、いかにも親切に見える。けれども、その結果は、その人をだまし、金品をかすめ取るのです。詐欺を働く人こそ、真面目な人に見えるのです。偽預言者もそうだと語るのです。
 当時の預言者たちは、決まった外套を身にまとっていたようです。旧約の預言者エリヤは、毛ごろもの外套を着ていました。そして、バプテスマのヨハネも毛ごろもの外套を着ていたのです。ですから、外套をも見れば預言者だと分かるのです。病院へ行けば、誰が医者で、誰が看護師であるかは、その服装を見ればわかります。交番へ行けば、誰が警察官か服装を見ればわかります。消防士もガ−ドマン、お坊さんも服装で一目瞭然なのです。そのように預言者も服装でわかったのです。けれども、預言者の服装をしていても、その服装にふさわしくない者たちもいたのです。
 だから、聖書は外見ではなく、服装ではなくて、その実で判断するようにと語ります。16節を共に読みましょう。「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。」 茨の中で、クロウメモドキという種類があるそうです。小さい黒い実がなり、それがぶどうにとてもよく似ているそうです。また、あざみの一種では、花が咲き、遠くから見るといちじくのように見える木があるそうです。それはよく似ているけれども、ぶどうの実ではないし、いちじくではないのです。
 よく似てはいても、その実を見れば、その実を食べてみればわかるのです。本物に触れる時、その偽りがわかるように思うのです。20節にあるように、「このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」と、真理を語っていても、その真理に生きていない預言者の実、姿を見ればわかるのです。

 二、イエス様を信じることが大切
 21節から23節をリビングバイブルは、「信心深そうな口をきく人がみな、ほうとうにそうだとは限りません。そういう人たちは、わたしに向かって「主よ、主よ」と言うでしょう。けれども、天国に入れるわけではありません。天におられるわたしの父に従うかどうかが決め手です。最後の審判の時、大ぜいの人々が弁解するでしょう。「主よ、主よ。私たちは熱心に伝道しました。あなたのお名前を使って悪霊を追い出し、すばらしい奇蹟を何度も行ったじゃありませんか。」しかし、わたしはこう宣告します。」「おまえたちなんか知らない。ここから出て行けっ!おまえたちがしたのは悪い言葉ばかりではないか。」」とあります。
 当時の律法学者やファリサイ派の人々は、イエス様を信じることなく、神様の言葉を大切にするのではなく、自分たちの作った人間の教えを大切にし、神様のお心に従うのではなく、人に見せるための信仰、自分がいかに信仰深い者なのか、断食を行い、神様の前に敬虔で、誰よりも多くの献げものをするという信仰深そうな者であることを示していました。
 イエス様はそのような見せかけの信仰に対して、徴税人や遊女と言われる、律法学者やファリサイ派の人々から見れば、罪深い人間、神様から最も遠い人間、不信仰な人間と思われる彼らこそ、イエス様の語られる言葉を聞き、イエス様を神様だと信じ、イエス様に救いを求めてイエス様の元にやって来た彼らこそ、救われている者、神様に近い者、信仰ある者であることをイエス様は語られたのです。外側は羊で内側が狼だと言われたように、預言者の服を着ているけれども、その行いは信仰深く見えても、その内側は神様を信じる信仰のない者であり、主よ、主よ、神様、神様と言って祈り、神様を信頼しているように見えて、熱心に伝道した。悪霊を追い出した。奇跡を行ったと外側に見える業を強調しても、イエス様を信じる信仰、つまり自分の罪を認め、その罪のためにイエス様が十字架にかかって死んで下さったことを信じることなしに、人間の戒めを一生懸命に守り、断食し、多くの献げものをしたとしても、イエス様には知られていない。
 私たちは、背伸びするのでもなく、自分を信仰深く見せるのでもなく、ありのままの自分、罪ある者であることを素直認めて、そのままの自分をそのままで受け入れて下さるイエス様を信じる者でありたいと思うのです。

 三、イエス様の言葉に触れ続ける
 24節からは、有名なたとえ話です。教会学校ではよく話される内容です。紙芝居にもなっています。家を建てるのに、岩を土台としているのか、砂を土台としているのか、普段はわからない。けれども、洪水が押し寄せ、嵐が来ると違う結果になるというのです。岩を土台としている家は、土台がしっかりしているのでびくともしない。安全なのです。しかし、砂の上に建てた家は、倒れてしまうのです。
 神様、イエス様を信じているのかどうか。外見ではわかりません。先ほどの話しで、信仰深そうに見える律法学者やファリサイ派の人々は、外見上は神様を信じているように見えるけれども、救いから遠い。逆に、徴税人や遊女と言われて、罪のレッテルを張られていた人々は、外見上は強欲でふしだらに見える。見えるのではなくその通り。けれども、自分の罪を認めて神様に救いを求める者であるので救われているのです。
 救われているかどうか普段はわからない。しかし、わかる時が来る。イエス様が再び来られる時、再臨される時、それは明らかになります。また、聖書を通して神様が語られる、福音を聞いて信じる者、自分にも罪があることを認め、その罪のためにイエス様が身代わりに十字架にかかって死んで下さったことを信じる者は救われる。このことを信じる者は罪が赦され魂に救いがあるのです。そして、イエス様が死からよみがえられたように、私たちも死んでもよみがえる。永遠の命を持つのです。
 岩を土台とするか、砂を土台とするのかの違いは、イエス様の言葉を聞いて実行するのか、聞くだけで終わるかとの違いです。「わたしのこれらのことばを聞いて行う者」、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者」とイエス様は言われたのです。山上で語られたイエス様の教えのまとめです。イエス様はたくさんのことを語られたけれども、教えられたけれども、語られたイエス様を信じて、その教えを喜んで実行する。外見がどうのこうのではない。人にどう見られるかではない。あの人が、この人がどうこうのではない。私は、神様の前に罪深い者であること、その罪深い滅びに向かう私をそのままで愛して下さり、私を救うためにイエス様が身代わりに十字架にかかって死んで下さったことを信じることが大切なのです。そして、死んでよみがえられたイエス様を信じて私たちも永遠の命が与えられていることを信じて感謝して生きるのです。この感謝に満ち溢れて、イエス様の言葉に従いたい、実行したいと願うようになるのだと思うのです。
 私たちは、イエス様を信じていても失敗したり苦しみを経験することがあります。イエス様を信じていなくても成功したり祝福されている人がいます。イエス様を信じるとは、クリスチャンとは、成功や祝福が目的ではありません。イエス様に救われて罪赦されて、魂が救われて、イエス様と共に歩むものです。与えられたことを感謝して、環境に左右されず、どのような状況にも、神様が共におられ、問題や困難を必ず祝福と恵みに変えられると信じる者です。見えるところが大事なのではなく、見えないところ、救われ、永遠の命が与えられ、イエス様がいつも共におられることを感謝して生きる者が、神様を信じる者、クリスチャンなのです。

 V結論部
 律法学者やファリサイ派の人々は、イエス様と交わることなくイエス様を信じることなく、イエス様を批判しました。そして、ますます神様から遠い存在となりました。かたや、徴税人や遊女と言われる人々は、自分の行った事々に悲しみ、苦しみ、イエス様の言葉に救いを求め、イエス様を神様と信じイエス様と共にいました。本物に触れ続けたのです。イエス様を信じたから、すぐに行いが改められたり、まじめになったりということはなかったでしょう。けれども、彼らはイエス様のもとにとどまり続けたのです。イエス様に触れ続けたのです。イエス様を土台として生きたのです。
 本物と偽物、いろいろな世界にあります。かばんや洋服も有名なメーカーの本物と似せて作った偽物があります。テレビでも映画の世界でも本物と偽物があります。そして、イエス様はクリスチャンにも本物と偽物があると言われたのです。外見上信仰深そうに見える律法学者やファリサイ派に見られる偽物の生き方、逆に信仰的には見えないけれども、イエス様に救いを求め、イエス様を土台として生きる徴税人や遊女と言われる本物。
 私たちはどちらの生き方をしているでしょうか。私は、高校生の時、あることがきっかけで、自分がクリスチャンであることをクラスのみんなに話しました。その次の日からつらくなりました。私はクリスチャン。そのことをみんな知っている。ちゃんとしなければ、証のできる者にならなければ。いつも笑顔で親切で、困っている人を助けて、唇において、言葉において、悪い言葉を発しないように。そう思うと息苦しくなってしまったことがありました。自由が無くなってしまったのです。
 クリスチャンとは、真面目な人ではありません。他の人よりも親切にする人ではありません。口から出る言葉はいつも感謝と喜びに満たされている人でもありません。酒も飲まない。タバコを吸わないのがクリスチャンではありません。いつの間にか、クリスチャンとは品行方正な人、真面目で熱心な人、人を大切にし、人のためなら時間も財もささげる人でもありません。先週、「少年H」の映画を教会で見ましたが、あのHのお母さんは、そのような人でしたね。あの映画に現れているような人がクリスチャンではありません。
 クリスチャンとは、自分が罪ある者だと気付いて、イエス様に助けを求める人です。自分が罪深い者であるからこそ、その救いの根拠、イエス様の十字架と復活を自分のためだと信じる者です。そう信じてイエス様に触れ続ける人です。救い主であるイエス様といつも共に生きる人、それがクリスチャンなのです。私たちは信仰の本物、イエス様にこの週も触れ続けましょう。聖書の言葉、神の言葉に触れ続けることがイエス様に触れ続けることです。
イエス様が共におられるので何があっても大丈夫です。安心して今週も過ごしましょう。
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