日曜礼拝(2016年2月14日)
日曜礼拝(2016年2月14日)
       日曜礼拝(受難節第一主日)       2016.2.14

          「ワンランク上の愛」 ヨハネ8:1〜11

 T導入部
 おはようございます。2月の第二日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝いたします。
 先週の10日の水曜日は灰の水曜日で、この日から受難節(レント)が始まりました。ですから、今日は受難節第一日曜日の礼拝となります。受難節(レント)は、イースターまでの6回の日曜日を除く40日間を言います。この期間は、イエス様の苦しみを思い巡らす期間です。ですから、お祝いや楽しいことを避けて、断食をしたり、苦行をしたり、好きな物を断ったりとそれぞれです。レントとは、断食を意味する昔のゲルマン系(古ドイツ語)の言葉から今の英語になったものです。
 日曜日は、イエス様の復活を喜ぶ日ですから、この期間からは除かれ、40日間をレント、受難節の期間として守るのです。ノアが箱舟の乗り、40日40夜雨が降り続きました。イスラエルの人々は、荒野の40年を過ごしました。モーセはシナイ山に40日間登りました。先週のお話しですが、預言者エリヤは40日歩き続けてホレブの山、シナイ山に着きました。イエス様は、40日の断食をなさいました。このように40という数字は苦しみを現しています。
 今日はバレンタインデーということで、日本中がチョコレートに支配される日でしょう。皆さんもチョコレートを差し上げたり、いただいたりするのでしょう。愛の告白をする方がおられるかも知れません。月報の巻頭言にも書きましたが、イエス様が愛を告白していることを私たちは受け入れたいと思うのです。今日はまた、家内の誕生日です。いつもバレンタインデーと重なってしまい、落ち着きませんがおめでとうを言っておきましょう。
 今日は、「ワンランク上の愛」と題して、ヨハネ8章1節から11節を通してお話ししたいと思います。
 「ワンランク上」という言葉はいろいろな場所で使われています。その意味は、より上等な、高級なありさまを言います。今よりも上を目指す意味もあるでしょう。旅行会社は、ワンランク上の旅、プレミアムステージとか言って高級な、高い費用の旅行を紹介しています。飛行機も、いつもはエコノミーだけれども、今回はワンランク上のビジネスクラスとか、ファーストクラスにと良い席で旅をするということもあるでしょう。今日のステーキは、ワンランク上の黒毛和牛でということもあるかも知れません。今日のバレンタインのチョコは、チロルチョコではなくて、ワンランク上の板チョコということもあるでしょう。私たちは、神様の愛についても、ワンランク上の愛を受け取りたいと思うのです。

 T本論部
 一、人間の罪深さは誰にでもある
 今日の箇所は、姦淫の現行犯で捕えられた女性を、律法学者たちやファリサイ派の人々がイエスの所に連れて来たことから始まります。なぜ、現行犯の女性を連れて来たのか、その理由は、6節にあります。「イエスを試して、訴える口実を得るため」です。ですから、姦淫の罪を犯した女性をイエス様の所に連れて来たというよりも、イエス様を試すために、口実を得るために、姦淫を犯した女性を利用したということです。
 律法には、死刑に関する規定がありました。「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」(レビ記20:10)とあります。また、「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かなければならない。」(申命記22:22)とあります。
 ですから、本当ならば、現行犯で捕まえられたこの女性と相手の男性を連れて来なければならなかったのです。けれども、女性一人だけだということは、何か裏がある。陰謀があるように思うのです。姦淫そのものも、そのように仕向けたと考えられるかも知れません。
 そのような不正の臭いのする律法学者たちやファリサイ派の人々の罠でした。イエス様もそのことを感じていたでしょう。「相手の男はどうした?」と質問することもできました。けれども、イエス様は彼らの出方を見られたのです。
 律法学者たちやファリサイ派の人々は、姦淫の罪の現場で捕えられた女性、恥ずかしさとみじめさ、人のいない所に逃げて行きたい思いを持つ女性を群衆の真ん中に立たせたのです。リビングバイブルには、「寄ってたかって、一人の女を引っ立てて来ます。」とあります。彼女を見世物にするかのように、鬼の首でも取ったかのように、自分たちの正義をかざして、ただイエス様を試し、口実を見つけるためだけに、彼女をだしに使ったのです。
 何とひどい人々でしょうか。そう思いませんか。テレビのニュースで、事件を起こした人々の事が映し出されて、本当にひどいことをする親や子どもやといろいろです。そんなこと人間ができることなのかと思います。そして、自分はそんなひどいことはしないと思う。けれども、人間の罪というものは、そのような状況や立場に立たされた時、ひどいことをしてしまうのです。それが、人間なのです。
 私たちは、律法学者たちやファリサイ派の人々のことを見て、ひどいことをすると思いますが、私たちもいろいろな人や物事を利用して、自分の欲を満たしたり、自分のいいようにすることはあるのです。聖書は、全ての人は罪を犯した存在であると宣言します。優しい人であろうと寛容である人でも、その心には罪が存在するのです。そして、あなたもわたしもそうなのです。

 二、人間は罪を許し、罪を裁く権利はない
 「先生、この女は、姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と律法学者たちやファリサイ派の人々は、イエス様に質問しました。イエス様を陥れるための質問でした。律法にそう書いてあるのだから、石で撃ち殺せ、と答えれば、愛による解放を告げるイエス様は偽りものになります。また、当時、処刑にする権限はユダヤ人にはなく、ローマ政府に反することをしたということになります。また、罰してはいけないというならば、律法を破ることになります。ですから、どちらを答えてもアウトとなるのです。それが、律法学者たちやファリサイ派の人々の陰謀、口実を見つけるための罠だったのです。
 そのように質問されたイエス様は、かがみ込んで地面に何かを書き始められたのでした。
冷たい多くの視線がこの女性に集まる中で、その視線を自らに集中するかのように、イエス様は不思議な行動、かがみ込んで地面に何かを書かれたのです。
 姦淫を犯した現場で捕えられた女性を寄ってたかって、つるし上げようとする人々の正義感や怒り、それに対しておびえ、いたたまれない女性の姿をイエス様は見るに忍びない。ここにいる群衆の中で、イエス様だけが彼女の心の痛みを、嘆きを知っていて下さったのだと思うのです。悪いことをしたのだから罰せられるのは当然でしょう。彼女も姦淫をすれば死刑になるという掟を知っていたはずです。罪を犯した者は罰せられるのです。
 車に乗ってスピードを出しすぎたら、スピード違反で捕まるのです。駐車してはいけない場所に、車を駐車すれば駐車違反で捕まるのです。減点と罰金を払わなければなりません。先日、ギデオンの牧師招待の集会で、牧師先生たちとお交わりをしました。宣教師の先生がおられて、日本人であって、海外で宣教しておられた先生もおられて、海外では車でスピード違反をして、牧師や宣教師だと言えば許してもらえた。けれども、日本でスピード違反をして牧師や宣教師だと言っても絶対に許してもらえない。こうも違うのですね、という話をしました。牧師であろうが宣教師であろうが、罪は罪で、償わなければならないのです。
 律法学者たちやファリサイ派の人々は、かがみ込んで地面に何かを書いておられるイエス様にしつこく問い続けたのです。「先生、この女は、姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と。
 するとイエス様は、身を起こして言われたのです。7節のカッコを共に読みましょう。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そう言われて、イエス様は身をかがめて地面に書き続けられたのです。イエス様は、AかBかの質問に、第三の道を示されたのでした。私たちも、いろいろな問題の中で、右か左か、AかBかを選び取らなければならない時があります。どちらを選んでも厳しい。しかし、イエス様は、第三の道、神様の道を示して下さるのです。

 三、あなたはそのままで赦されている
 イエス様は、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。この答えは、律法学者たちやファリサイ派の人々の想定外の言葉でした。リビングバイブルには、「そんなに言うなら、この女を石で打ち殺すがいい。しかしいいか。最初に石を投げるのは、今まで、一度も、罪を犯したことのない者だぞ。」とあります。罪を犯したことがない、という言葉は、単に罪がないばかりではなく、罪の欲望がないということでもあるとバークレイという人は語っています。
 律法学者たちやファリサイ派の人々は、自分たちは罪がないと言いながら、神様の前に正しいと言いながら、陰では不正を働いたり、人々を律法で責めたり、傷つけたり、神様の喜ばれないことをしていたのです。ですから、罪を犯したことのない者、今までに一度も罪を犯したことのない者と言われて、誰も罪を持たない者はいなかったのです。
詳訳聖書には、「彼らはイエスのことばに耳を傾け、それから良心を責められて」とあります。また、リビングバイブルには、「ユダヤ人の指導者もパリサイ人も、ばつが悪そうに」とあるように、誰もが自分の心には罪があること、罪を犯したことがあると認めたのです。だから、ここに集った人たちは、誰もか彼女に石を投げつけることはできなかったのです。
 正義を振りかざし、律法で人々を責め続けて来た彼らは、自らの罪にゆえに、裁かれたのです。そして、イエス様と姦淫を犯した女性だけが残りました。10節を共に読みましょう。「イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」」 誰も罪に定めることはできなかったのです。本来、人が人をさばくことなどできないのです。
 11節のカッコを共に読みましょう。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 イエス様は、ただ一人だけ、罪を罰することのできるお方でした。神様でした。姦淫を犯した女性は裁かれるべき存在でした。死刑を受けて死ぬべき存在でした。しかし、死刑だと宣言できるお方が、「わたしもあなたを罪に定めない。」つまり、「わたしはあなたを赦します」と宣言されたのです。
 イエス様は、姦淫の現場で捕えられた女性に、「なぜ、そんなことをしたのですか」とも、「姦淫などしたらだめでしょ」とも、「姦淫と言う罪を犯したのだから、十分に反省しなさい。悔い改めなさい」とも言いませんでした。ただ、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われたのです。そんな簡単に許してもいいのですか。癖になりますよ。ここでビシッと言っておかなければ、また、罪を犯しますよ。律法で死刑になるような罪を犯しておきながら、何の罰もないのですかと世間は言うでしょう。そんなことだから、キリスト教はダメなんだ、と批判するかも知れません。でも、イエス様は、彼女の大罪を罰しなかった。赦されたのです。
 それは、簡単に許すというのではなくて、この罪のためにイエス様が十字架にかかるからなのです。彼女を罰する代わりに、ご自分が十字架にかかり、父なる神様にさばかれるのです。その命をかけて、ご自分の命を投げ出して罪を赦されるのです。イエス様は、彼女の罪を赦されたように、私たちが過去に犯して来た数々の罪、今犯し続けている多くの罪、そして、やがて犯すであろう未来の罪の身代わりに、十字架にかかってさばかれ、尊い命を最後の一滴まで流し、命を差し出して私たちの罪の身代わりに死んで下ったのです。
このことがあるから、イエス様は私たちを罰しないのです。罪をお赦しになるのです。

 V結論部
 先日、三浦綾子文学講座で森下先生から氷点の最後を学びました。主人公の陽子は、今までは自分が罪ある者であるとあまり感じなかったけれども、自分の本当の父が殺人犯と知って、自分の中にも罪の可能性を知り、生きる望みを失ったのです。誰も自分を救えないと感じたのです。そして、罪の赦しが欲しいと思いました。「ハッキリとゆるすと言ってくれる権威あるものがほしいと願った」のです。私たちは、自分の心にある罪を認めます。そして、自分の罪が許せないと思う。人間には、罪を許したり、誰かの罪を許せないという権威はないのです。律法学者たちやファリサイ派の人々にも、罪許す権威はないのです。
 罪を赦す権威のある方はイエス・キリスト様なのです。このお方があなたをそのままで赦すと宣言しておられるのです。このワンランク上の愛を体験しようではありませんか。
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