![]() 2015年8月23日 日曜礼拝(三位一体後第十二) 2015.8.23 「お言葉を返すようですが、ではなく、お言葉ですから」 ルカ5:1~11 T導入部 皆さんおはようございます。上芦別教会の兄弟姉妹、おはようございます。8月の第四日曜日を迎えました。今日も皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝いたします。以前の暑さに比べると少し涼しくなったように感じるこの頃だと思います。 21日の金曜日の朝、闘病中でありました愛する下川可代子姉が天に召されました。頑張り屋の下川姉でした。お体に弱さや戦いを持ちながらも、何度も克服し、立ち上がり、信仰生活に励んでおられました。20の木曜日の夜、大変弱られているという連絡をいただき、家内と共に病院に行きました。苦しそうな息使いでしたが、目をしっかりと開けて、聖書の言葉を聞き、讃美歌の歌声に応答し、祈りに心を合わせて下さいました。90年と言う尊い人生の最後に、愛する家族に見守られ、大好きなイエス様に見まもられながらの召天でありました。福音を通して与えられた魂の救いと罪の赦しをもって平安を得、永遠の命の恵みを持って神様のみもとに召されて行かれました。 私たちは、これから肉体の目を持って下川姉を見ることはできませんが、天国での再会に期待したいと思います。ご家族の上に、神様の豊かな慰めと励ましがありますようにお祈り下さい。26日の告別式の上に、神様の豊かな導きが与えられ、下川姉の信仰が示され、福音が豊かに語られるようにお祈り下さい。 高梨京子姉が、今朝天に召されました。ご家族の上に、神様の豊かな慰めと支えがありますようにお祈り下さい。 さて、今日はルカによる福音書5章1節から11節を通して、「お言葉を返すようですが、ではなく、お言葉ですから」という題でお話したいと思います。 U本論部 一、そこに居合わせただけの恵み 多くの群衆がイエス様を通して神の言葉を聞こうとして押し寄せてきました。今日のお話の中心は、この神の言葉を聞こうとして集まった人々ではなく、別にイエス様の言葉、神の言葉を聞きたいと願ったわけでもなく、イエス様の話しを聞かなければならない環境に置かれたペトロのお話です。ただ、そこに居合わせただけだったのです。 多くの群衆が押し寄せて来たゲネサレト湖畔の、その場所にペトロはいました。舟から上がって網を洗っていたのです。後でわかることですが、一晩中働いても何も獲れずに、落ち込んで網を洗っていた。同じ網を洗うのに、大漁の時は、網を洗うのにも力が入り、心地よい疲れでしょう。しかし、毎日ギリギリの生活をしていたペトロが、何も取れなかったということは、家族にその日の生活の糧を与えることができないということで、疲れの上に、家族にどのように話したらいいか、今日の生活のためにどうしたらいいかと心配が重なりました。そのような状況の中にあるペトロに、イエス様は声をかけ、舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにと頼まれたのです。「勘弁して下さいよ」というのがペトロの本音だったでしょう。網を洗い、家族の必要の事を考え、手に入れなにといけない。断りたい。しかし、ペトロは断ることができませんでした。 ルカによる福音書4章38節からの所では、ペトロは姑の病気をイエス様に治していただいた記事があります。ですから、イエス様には借りがありましたからむげに断ることはできなかったでしょう。ペトロは漕ぎ出し、イエス様は舟の中から、岸にいる群衆に話しかけたのです。そして、ペトロもイエス様のお話を聞く羽目になったのでした。 イエス様は、いろいろな話しをされたことでしょう。神の言葉を聞こうとして集まった群衆は、イエス様の話しを聞いて喜んだことでしょう。いくら良い話でも、ペトロにとっては、自分への話しではなく、群衆に語られた言葉だったのです。群衆の言葉として語られた言葉は、魚が一匹も獲れずに落ち込んでいるペトロの心には、響きませんでした。 しかし、この後、イエス様はペトロに個人的に語られるのです。今日も礼拝で、み言葉が語られています。神の言葉を聞こうとして期待して来られた方もおられるでしょう。毎週の週間で礼拝に来たという人もおられるでしょう。別に今日礼拝に来るつもりはなかったという人がいるかも知れません。ペトロと同じように、今日は聞かなければならない環境に置かれて礼拝に来る羽目になったという人がおられるかも知れません。どのような思いであれ、今日語られる言葉が、群衆に語られている言葉として聞くのではなく、私に、自分自身に語られている神の言葉として一人ひとりが聞いてほしいと思うのです。 二、無駄骨に見える 群衆への話しが終わった時、イエス様はペトロに語られました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と。リビングバイブルには、「さあ、もっと沖へこぎ出して、網をおろしてごらん。たくさん魚がとれるよ。」 ペトロは、イエス様が今まで語られた言葉を群衆へ語られた言葉として聞いていました。けれども、今は群衆にではなく、ペトロ自身に、彼一人に向けて語られたのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と。夜通し働いても何も取れなかったという虚しさ、家族に対する申し訳なさ、何も取れなかったのにもかかわらず、汚れている網を洗わなければならなかった虚しさ。この全てをご存じであってイエス様はペトロに向かって語られたのです。自分に向けて語られた言葉として聞いた時、ペトロの内には大きな葛藤が始まりました。イエス様の語られた言葉に従うのか、従わないのか。そのことがペトロに問われるのです。ペトロは語ります。 5節を共によみましょう。「シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と答えた。」 「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、」というのは、「先生、お言葉を返すようですが、」ということだと思うのです。「しかるべき敬意を払って申し上げますが、失礼ながら、恐れながら」と、イエス様の「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」という言葉に対して、イエス様に対して敬意を払いながらも、イエス様の発言に反対の場合に用いられる丁寧な言い方です。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」とおっしゃいますが、 漁師として、プロとして、自分の経験と勘とを駆使して、最大限に生かして、もっとも魚の獲れる時間に漁をしたのにもかかわらず、一匹も獲れなかった。それなのに、これ以上に労苦を重ねることに何の意味があるのでしょうか。そんな苦労はいやです。こりごりです。ごめんです。目に見える結果、必ず獲れるという確実にわかっているならば、そのためにどんな苦労もいとはない。やります。辛抱します。がんばります。けれども、今のペトロには、今から沖へ漕ぎ出して、もう一度漁をするということが無意味に思えたに違いないのです。 昼間の漁には、漁師としての経験上、プロとしての勘も、何も期待できないことがわかっているので、そのための苦労はまっぴらごめん。これが、ペトロの正直な思いだったでしょう。私たちも、ペトロと同じような経験があるでしょう。頑張った。努力した。けれども、何も成果がなかった。これからも期待でいない。そのような時、もう一度努力するように、トライするように言われてもできない、ということがあると思うのです。 三、イエス様に全てを賭けよう 私たちはそのような時、精一杯努力したけれども、だめだった。何をしたって駄目だ。そのように、自分の今までの知識や経験が心にささやく中で、自分の声か、イエス様の声かと葛藤があるのです。ペトロはそうでした。お言葉を返すようですが、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しました」というのは、過去の経験、体験の声です。しかし、ペトロはここで終わりませんでした。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」とイエス様の言葉にかけたのです。やっても無駄という自分自身の声ではなく、「さあ、もっと沖へこぎ出して、網をおろしてごらん。たくさん魚がとれるよ。」というイエス様の言葉に自分自身をゆだねたのです。 自分自身が今までに生きて来た生き方、長年の間に身に着けて来た社会的な常識や価値観を離れて、イエス様ご自身が語られた言葉、すなわちイエス様に全てをかけたのでした。ペトロは何か特別な事をしたわけではありませんでした。彼がいつものように、仕事でしているように、網を降ろして漁をしたわけです。いつもしていることをいつものようにしただけなのです。ただ、昨晩は何も獲れなかったという辛い、むなしい経験をしたばかりであったので、網を降ろして漁をするということを実行することに、一歩踏み出すには勇気が必要でした。ペトロは、イエス様を信じて、イエス様に全てを委ねて、イエス様の言葉の通りに、自分がいつもしているように、網を降ろして漁をしたのです。 すると驚くべきことに、多くの魚が獲れたのでした。昨晩、何度も何十回も網を投げても、一匹も獲れなかった魚が、たった一度網を投げただけで信じられないような魚が獲れて、もういっそうの舟に応援を頼まなければならないほどの大漁だったのです。バンバンザイ。もう家族のための必要が与えられたのです。安心と感謝でいっぱいでした。 その時、ペトロ自身に変化が起こりました。イエス様の言葉に従って一度の網を降ろしたら、今までに経験したことのない大漁を経験し、イエス様がただに教師ではない、神であることを認め、そのことを認めた瞬間、自分自身が神様の前にいることを感じ、イエス様に対して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と告白したのです。 そのペトロにイエス様は語られました。10節のカッコを共に読みましょう。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 自分自身が罪深い者であることを恐れる必要はない。なぜならば、イエス様ご自身が全世界の罪びと、私たち一人ひとりのために十字架にかかって、尊い血を流し、命をささげて下さったのです。そのことのゆえに、私たちの全ての罪、過去、現在、未来の罪が赦され、私たちの魂に救いが与えられたのです。イエス様は、神様であるのに、死を経験し、よみがえられたので、私たちに永遠の命を与えて下さるのです。 下川可代子姉は、21日に天に召されました。それはとても悲しいことではありますが、私たちは天のみ国で、姉妹とまた会うことができるのです。 V結論部 私たちは、聖書の言葉もメッセージも、群衆に、大勢に、みんなに語られているというように受け取っているかぎり、葛藤もないでしょう。けれども、聖書のこの言葉が、メッセージが、自分自身に語られていると受け止める時、スムーズに行かない日常生活や信仰生活、困難や苦しみを経験している時、過去の傷や痛みを経験した私が、自分の言葉に立つのか、聖書の言葉、神の言葉に立つのか、に葛藤する時、私たちは、神様に、「お言葉を返すようですが」と反論し、否定して、自分の今までの経験や価値観に立つのではなくて、「安心しなさい。大丈夫だ。」と語られるイエス様の言葉に、自分自身を丸投げして、お委ねして、ペトロが経験したように、神様が備えておられる恵みと祝福を体験させていただきたいと思うのです。 ペトロは、神様のみ業の前に自分自身の罪が示され、悔い改めました。罪深い自分自身がきよい神様の前から離れなければならないと思い、イエス様に離れて下さいと叫びました。 自分自身が神様のみ前に罪深い者であることを認めたペトロにイエス様は、「おまえは本当に罪深いヤツだ」と言ったのではなくて、「恐れることはない」と言われたのです。自分の罪を悲しむ者、痛む者に恵みを与えられるのです。そして、そのような者をご自分の尊い働きのために用いられるのです。 ペトロは、これまたイエス様の言葉に従って、弟子の道を歩むことになるのです。自分の仕事の事、家族の事、将来の事を考えたら、常識や今までの経験、価値観に立つならば従えない内容でした。しかし、イエス様の言葉に従い、神の恵みと祝福を経験したペトロは、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」という言葉にも、「お言葉を返すようですが、」ではなく、「お言葉ですから」と、イエス様の言葉に従うことができたのです。 私たちも、聖書の言葉、神の言葉に、「お言葉を返すようですが」と否定したり、対抗するのではなく、「しかし、お言葉ですから」と、イエス様の言葉に信頼して、ゆだねて、喜んで従いたいと思うのです。「恐れることはない。安心しなさい。大丈夫」そう言って下さるイエス様が、いつもあなたと共におられるのですから、安心してゆだねて歩んでまいりましょう。 |
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