![]() 日曜礼拝(2015年11月8日) 北海道と言えば、羊と鮭だ 2015年11月8日 青葉台教会創立記念礼拝メッセージ@ ローマ12:1−2 創立47年。おめでとうございます。 初めてお会いする方もおられると思いますので、自己紹介を。 両親が創立の最初からのメンバー。小学校2年生。1980年11月23日(20歳)大江信先生より受洗。 1987年、青葉台教会で結婚(持田嗣生先生)1992年転勤で札幌に、札幌ナザレン教会。1999年献身、北海道聖書学院。 2002年より日本メノナイト 白石キリスト教会牧師。 青葉台教会のメッセージタイトル、いつも目を引き、心を鷲づかみにするタイトルを工夫されているので、私も真似してみました。 牧師はギリシャ語で羊飼いなんですが、休みの日はさとらんどに羊をさわりに行きます。羊では和めないが、リアル羊で和んでいます。 羊を眺めながら、贅沢に成吉思汗を堪能あ。なんとかわいそうな。あたり一面に煙が立ちこめて、美味しそうな匂い。 でもこれってイスラエルでの、旧約の礼拝です。良い香りは祈りの捧げ物。神さまの喜ばれるのは脂肪と髄。 【1節】献身 「こういうわけで、兄弟たち、…あなたがたに勧めます。」これは、今までのローマ書11章までを受けている。 「こんな罪人の私を、神は愛し、イエス・キリストの十字架の血で贖ってくださった!こんな私を選び、義と認め、聖化の道に進ませてくださった。」その「神の憐れみによって」「あなたがたにお願いします。」ということ。 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」 ◎旧約の礼拝は、羊や牛を屠って、その死んだ体をいえにえとして献げる行為。そのため、礼拝には様々な規定があった。 @傷のない、1歳の A聖別する(神のために取り分ける)。 B神に喜ばれる方法で。(内臓をどうする。外で焼く。等) ◎それに対し、新約の礼拝、「あなたがたのなすべき礼拝」とは・・・ 羊ではなく、「自分の体を」、「神に喜ばれる」、「聖なる」、「生きた」「いけにえとして献げ」ること。 この「からだ」〈ソーマ〉は、心も体もさす、全人的な体。 新共同訳では、漢字で「体」を当てている。 死んだ体を研究のために献げる=献体。 「身」も心も=献身。 新改訳「これこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」新共同訳「あなたがたのなすべき礼拝です。」これは〈ロギケー・ラトゥレイア〉の訳、ロギケーは「理性にかなう」(リーズナブルな)の意味。またラトゥレイアは礼拝だけではなく、「奉仕」も指します。 私たちのなすべき・霊的な礼拝とは、生活のすべてをもって主に仕えていくこと。すなわち献身です。 主に贖われた者として(つまり主が代価を支払って、私を神さまの所有の民としてくださった)形式や儀式ではなく、神に生きること。 さらに「神に喜ばれる」ために、私たち自身が、どのような供え物として整えられる必要があるのでしょうか。 【2節】変革 その具体的な内容が2節。「この世に倣ってはなりません。」(新共同訳)「この世と調子を合わせてはいけません。」(新改訳) 教会の中にもこの世の価値観が入り込んでいる。 世に流されて、生きるのならば衝突することもない。皆がやっている。 世と言う言葉は、時代とも訳せる。時代に合わない。誰もがやっていることでしょうと(嘘も方便)。 しかし世に流されるのではなく、聖なる者として生きる。聖書を自分の思いや考えに合わせて読むのではなく、聖書に従う。 豊平川。鮭。数年間、海で生活をする。しかしその最後に、産卵のために生まれた川に帰ってくる。命を賭けた最後の大仕事。 知床の川。川が黒くなるぐらい。かなりの急流を上っていく。それは鮭が生きているから。流れに逆らって上ってくる。 産卵を終えて、卵をまもり、死んでいく。ほっちゃれ。でも死んだら、流れに流されて川を下ってくる。ボロボロになる。 私たちも生きたクリスチャンとして、流れに逆らって生きる。もし流れに流されているのならば、死んだほっちゃれクリスチャン そうではなく「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき・・・。」 「新たにして」:「一新」(アナカイノーシス)辞典を見ると「リニューアル」、またテトス3:5では「更新」と訳されている。 リフォーム:《例》建物。手すりやスロープを付けても車椅子の方には不便なまま。 そうではなくリニューアル。完全に更地や、躯体だけにして、バリアフリーにする。(最近では、建物のリノベーション) ある場所やアイデンティティは変わらない。しかし全く新しいものとして。 「変えて」は〈メタモルフォー〉、聖書の中ではイエス様の変貌山。(変貌山、Uコリ3:18) これは、虫の変態を現す。(形態を変えること)卵⇒芋虫⇒さなぎ⇒蝶 ◎芋虫:地を這いまわり、草を食べ、近視眼的(ワームヴュー)、天敵に怯える。 ◎蝶:もはや芋虫のように行動しない。天に舞い上がり、天の視点で見る(バードヴュー)、もはや草ではなく、蜜によって養われる。 もちろん敵がいなくなることはない。しかし怯えながら生きていかなくても良い。(写真はおおむらさき) 私たちも同じ。 かつて、罪人の私は、芋虫のように泥の中を這いまわり、価値のないものを大事にして、様々な人の評価や災いを恐れて生きていた。 ものの見方は近視眼的で、自分の目先の得になるかどうかを考え行動していた。 でもみなさん、自分で変えようと思っても変えられないのではないでしょうか。 ここは受身形「変えていただき」 神によって、聖霊によって変えていただく。(詩篇51篇) もちろんその為には私の意思も必要。「神様、私を変えてください」「新しい心を与えてください」と願う。 そんな私が、キリストと出会うのなら、まったく変えられる(メタモルフォーされる)。新しい人生が始まる。 もはや、罪人・いも虫の時のような考え方はしない。また、いも虫のような這い回る生き方もしない。 どんな時でも、主を見上げ、主に喜ばれる生き方へと変えられる。 蜜よりも甘い「み言葉」に養われ、物事をイエス様の視点で見る。たとえ病や試練の中でも、不安の中だけでは終わらない。 そのゴールは「わきまえるようになるため」。 (吟味する)次の事を吟味しながら、思い巡らしながら生きる。 @何が神の御心であるか? :考え方全体 A何が善いことか? :価値基準 B何が神に喜ばれるのか? :生活態度 C何が完全なことであるのか? :生きる目当て・目標 【結論】 私たちクリスチャンにとって、日曜9時、10時半から始まる礼拝だけが、礼拝ではない。また教会でする奉仕が奉仕だけではない。 「あなたがたのなすべき礼拝」、それは私たちの全ての思い・行動が、神に喜ばれる奉仕・礼拝となっていくように。献身と変革。 私たちは、神によって選ばれ、イエス様の十字架の血潮で贖われ、聖い聖霊の力によって新たにされた一人ひとりです。 イエス様に愛された羊、かわいい小羊として、招きに応え、献身して、全身全霊で仕えていく。 この世や時代に流されて生きるのではない!ほっちゃれではなく生き生きと流れに逆らって泳ぐ鮭のように生きる。 そして、神様に、蝶のように変えて変革していただく。新しい生き方を。 最後に、鮭は故郷の川に帰って来る時に、多くの子どもを抱えて帰ってくる。いくらちゃんです。ものすごい高級です。 同じ様に教会に帰ってきた人たちは、子どもも抱えて戻ってくる。教会の宝です。 霊の子どもたちがたくさんいます。家族や友人。それは祈り実。信仰の実。故郷の川に、世の流れに逆らって戻ってくる。 私たちも羊のように、鮭のように、さらに蝶のように、生きましょう。 |
<<prev 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 next>> |