![]() 日曜礼拝(2016年1月17日) 「 しかし神は:神の力と存在」 2016年1月17日――世界NYI評議会――日本 J・ピッカード師 私たちはついこの間、御子キリストの降誕をお祝いする待降節(アドベント)をお祝いしました。クリスチャンにとって、これはキリスト教の暦の中でとても大切な時期です。待降節とクリスマスに、私たちは喜びと希望と平和を分かち合います。しかしこの時期に私が一番嬉しく思うのは、神が共にいて下さることを、あらためて思い返せるからです。イエス様が肉体をもってこの世に来てくださったことを祝うこの時期、私たちは特に「インマヌエル」という言葉を何度も耳にします。「インマヌエル」とは「神が共にいます」という意味です。しかしクリスマスの時期だけ神が共にいてくださるから祝うのではありません。神は一年のある時期だけ、あるいは一週間のうち特別な日だけ、あるいは私たちがよい人間でいる時だけ共にいて下さって、また去ってしまわれるのではありません。神はいつでも共にいて下さるのです。でも人は忘れっぽいので、そのことを思い出させてもらう必要があるのです。神はいつでも私たちと共にいて下さいます。しかし、私たちの人生において、神がその存在と力をはっきりと示される時が何度かあります。 皆さんは、神が共におられるという感覚に襲われたことがあるでしょうか。神が本当に、あなたと共に、あなたのために、そこにおられるという確信を持ったことがあるでしょうか。私は、人生の良い時も悪い時も、順調な時も失敗続きの時も、嬉しい時も苦しい時も、万物の創り主である宇宙の主が私と共にいて下さるのだ、という思いに圧倒されたことが何度もあります。そんな思いに打たれるのは、たいてい忙しさから逃れて一休みし、ゆったりと自分自身の心の静けさを保っている時、神の創造された周りの世界の美しさ――美しい夕暮れ、公園の散歩、暖かい午後に頬をなでていく涼しい風、寒い冬の日に感じる暖炉の暖かさ――に神の存在を感じる時です。人は結局一人ぼっちなのだとか、たとえ神がいたって、神は人間の苦しみを何もせずに見ているだけ、とよく言われます。しかし聖書が語る神の姿はまったく違います。私自身の経験からも(願わくは皆さんの経験からも)それは違うと断言できます。今朝、そのことを皆さんにもう一度思い出していただきたいのです。 神は私たちと共に、私たちのために、そこにいて下さいます。神はいつも混乱状態の中に介入して下さり、その存在と力をもう一度思い出させて下さいます。聖書にはそのような例が無数に記されています。事実、聖書の中には、この真実を示す具体的な言い回しが繰り返し何度も登場していることに注目していただきたいと思います。 詩編73:26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。 ヨハネによる福音書1:18 神を見た者はまだひとりもいない。(しかし)ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。 サムエル記上23:14 ダビデは荒野にある要害におり、またジフの荒野の山地におった。サウルは日々に彼を尋ね求めたが、神は彼をその手に渡されなかった。 創世記8:1 (しかし)神はノアと、箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた。神が風を地の上に吹かせられたので、水は退いた。 コリント人への第一の手紙1:27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び エペソ人への手紙2:4−5 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリスト共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―― ローマ人への手紙5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んでくださったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 私にとって、これらの聖書のみ言葉は、神がこの世に、あるいは私自身の人生にその存在を示された証しなのですが、私の証しはそれだけにとどまりません。私は神の力と存在について個人的な証しをすることもできます。 私は若い頃、怒りっぽいティーンエイジャーでしたが、神はそんな私でも心から受け入れてくれるユースグループを通じて神はご自分を示されました。大学生になると間違った方向へ進みそうになりましたが、神は私の人生に何人もの大人を送って下さり、その人々の口から真実と愛の知恵を教えて下さいました。私は頑張って努力すれば清らかで敬虔になれると思っていましたが、神は御霊を送って私を導き、私という人間を形作って下さいました。私は自分自身の望みを中心に人生計画を立てていましたが、神は私を召し、神に従う無私の伝道という新しい冒険に導いて下さいました。簡単に命を落としたかもしれない場合も1度ならずありましたが、神が介入し守って下さいました。 さて、皆さんはいかがでしょう。皆さんの人生で、物事がどんどん悪い方向へ向かっている、しかし神が現れてあなたを救い、助け、癒し、あるいは導き、事態を好転させて下さったという経験はないでしょうか。 私は、聖書だけでなく、自分の人生で災いや苦痛が迫っていた時でも神が介入して下さって、あわれみや恵み、力や糧、癒しと助けを与えて下さったという例を、さらに無数に挙げることができます。 正直に言うと、私はこれまでの人生に神を見失ったことが何度もあります。少なくとも、試練や逆境の中にある時はそうでした。皆さんは苦しみの中で神の存在を疑ったことがあるでしょうか。詩編の中の歌や詩や祈りをいくつか見ると、ダビデにもそういう時があったようです。彼は神に、いつになったらこの苦しみから救い出し、助けと希望を与えてくださるのかと叫んでいます。 私たちの信仰が薄いせいか、逆境の中で神をはっきり見えなくなっている時、あるいは神がいつどのように私たちの人生に助けの手を差し伸べてくださるのか、よくわからない時があります。そんな時、私たちはどうすればいいのでしょう。神がいつでも共にいて下さることを信じていると口では言っても、神が私たちの人生に介入して下さるその方法について、私たちが自分勝手な期待を持っているとすれば、いささか態度を改める必要があるかもしれません。私の大好きなダニエル書の物語は、それを示す好例だと思います。皆さんはシャデラク、メシャク、アベデネゴの物語を覚えていらっしゃるでしょうか。国外で神の民としての帰属意識を保ち、エホバを礼拝しようと最善の努力を尽くした3人の若者の物語です。どうしようもなく自己中心的なネブカドネザル王は、巨大な金の像を建立し、その偶像にひれ伏し礼拝するよう全国民に命令を発しました。シャデラク、メシャク、アベデネゴは何度もそれを拒否したため、王の前に連れて来られ、偶像を礼拝するか、燃えさかる炉の中に投げ込まれるか、どちらかを選べと迫られました。 ダニエル書3章に記されている彼らの返答はこうです。「シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えていった。『ネブカデネザルよ、このことについて、お答えする必要はありません。もしそんなことになれば、私たちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また、王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません』」。 3人は、神が共にいて下さり、救い出すことがおできになると心から確信していましたが、たとえ神が救い出して下さらなくても、唯一の真の神に対する忠誠を放棄することはありませんでした。 皆さんもご存じの通り、この話の顛末は、燃えさかる炉の中に神が御使いを送り、炎から3人を守って下さったというものです。しかし奇跡はさておき、こんな状況の中で彼らは何と驚くべき信仰を示したことでしょう。要するに、シャデラク、メシャク、アベデネゴは、王は好きなようにするがいい、しかし神は私たちを守って下さるし、たとえそうでなくても、私たちは神を捨てて王を拝むようなことはしないと言ったのです。 私は果たしてそこまで到達しているかどうかわかりませんが、この3人の若者が示したような信仰を持てるように成長させてくださいと祈っています。人生でこれ以上ないほど切羽詰まった状況のさなかにあって、神の存在を認め、神は私を救い出して下さると信じる信仰、しかしたとえ救い出して下さらなくても、決して神以外の人や物を拝まないと言える信仰を持てるように。 誰でもそうですが、私も困難や損失や苦しみを経験してきました。しかし神はそれらすべてを通じて、つねに誠実でいて下さいました。 人の一生を貫く神の誠実さを考えるとき、もう一つの旧約聖書の話が思い出されます。それはヨセフの話です。マリヤの夫のヨセフではなく、ヤコブの息子のヨセフです。創世記の話を覚えていらっしゃるでしょうか。ヨセフはヤコブの一番下の息子で、父親から美しい衣を与えられたことからも分かるように、お気に入りであることは周知の事実でした。ある日ヨセフが兄たちを支配する夢を見たと言ったことから状況は険悪になります。兄たちはヨセフを懲らしめることにし、最終的には彼を隊商に奴隷として売り飛ばしてしまい、ヨセフは野生動物に殺されたに違いないという話をでっちあげて父親に信じ込ませます。エジプトでは、ヨセフは作り話によって牢屋に入れられてしまいます。何年もたった後、一連の夢を解き明かしてその知恵と洞察を示し、エジプト王に次ぐ位が与えられました。さらに穀物備蓄計画の実行責任者となり、その地域に大飢饉があったとき、穀物の配分の統括責任者となりました。これらすべてを通じて、神がヨセフと共におられたこと、またヨセフは決して信仰を失わず、自分自身の家族のための備えと救いのパイプ役となったことが分かります。兄たちはヨセフに出会い、許しと援助を乞いました。あんな苦しい目に合ってきたヨセフですが、彼が何と返答したか覚えておられるでしょうか。 創世記50:20−ヨセフあなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。 皆さんもこれまで苦しい目にあった経験をお持ちでしょう。おそらくヨセフも同じように苦しんだと思います。しかし彼は信仰と希望を捨てませんでした。皆さんの中には、人間関係が崩れてしまったという方がいるかもしれません。ヨセフは実の家族に捨てられました。何かを失ってしまった方もいるでしょう。ヨセフはすべてを取り上げられ、自由さえ失いました。讒言、不公平な扱い、かなわぬ期待。しかし神はヨセフと共におられました。ヨセフもそれが分かっていたからこそ、生き延びることができただけでなく、神を中心とした人生観を保ち続けていられたのです。 ヨセフの身にふりかかった災いはヨセフが引き起こしたものではなく、神からもたらされたものでもありません。しかし神はヨセフの置かれていた逆境を打ち破り、彼を通して、恵みと許しと贖いの素晴らしいみわざを示して下さったのです。 私たちはキリストを信じ、キリストに従う者として、神の祝福を受け、祝福の基になれることを自覚していると思います。しかし祝福を受けていると感じられないとき、私たちはどうするでしょう。人生の困難な時期にあっても、また苦しみや混乱の中にあっても、あるいは他の人の間違った決定によって自分に悪影響が及ぶときでも、ヨセフのように祝福の基となることができるでしょうか。今までを振り返り、自分に害を加えようとしていたものを神が変えて、良い目的のためにお用いになったという経験を思い出すことができるでしょうか。また今後、きわめて困難な状況のさなかにあっても、シャデラク、メシャク、アベデネゴのように「神は私を救い出すことができます。しかしたとえそうでなくても、私は神を礼拝し、神に従うことをやめません」と言える信仰に到達することができるでしょうか。 今日ここに集っておられる皆さんの中にも、何らかの問題を抱えていて、神が力と存在とをもって介入し、希望と助けを与えてほしいと感じておられる方が多いと思います。たとえば人間関係がこじれ、修復が必要な方。あるいは、自分自身や愛する人の身体に癒しが必要な方。仕事に大きなプレッシャーを感じている方や、経済的に厳しい状況にある方もいるでしょう。将来について何らかの決定を下さなければならない方もいるかもしれません。皆さんの抱える問題を正確にいい当てることはできませんが、このことだけははっきり言えます…神はあなたと共に、あなたのために、そこにいて下さるのです。 あなたは今、苦しんでいるかもしれません、しかし神は助けを与えてくださいます。今傷ついているかもしれません。しかし神はあなたの痛みを知り、慰めを与えて下さいます。暗い日々を送っているかもしれません。しかし神はイエス様によって世の光を送って下さいました。状況は厳しいかもしれません。しかし神は新たな希望を与えて下さいます。この世は破壊に向かっているかもしれません。しかし神は平和をもたらして下さいます。あなたの人生は涙にあふれているかもしれません。しかし神は喜びを与えて下さいます。 お祈りいたしましょう。 恵み深い天の父よ、今日あなたを称えます。あなたのみ名を称え、私たちを愛し見守っていて下さることを感謝いたします。み心が天で行われるごとく、地上でも行われますようにと、私たちは今日、心を一つにして祈ります。また、あなたがこの混乱の世界に介入し、恵みと平和と愛を示されるとき、私たちや周りの人々にあなたの存在と力を知らしめてください。私たちをあなたの真実と愛を伝える者として、他の人への祝福に用いて下さい。いつも共にいて下さる御霊を通じて、御子インマヌエル(神が共にいます)の力をもう一度私たちに教えてください。イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。 |
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