日曜礼拝(2015年12月20日)
日曜礼拝(2015年12月20日)
クリスマス礼拝(アドベント第四)    2015.12.20

   「セリフはないけど主役です。」 ルカ2:1〜7

 T導入部
 おはようございます。クリスマスおめでとうございます。12月の第三日曜日を迎えました。神であるお方イエス様が、人となって人間の世界に来られた日、クリスマス、全世界の教会で、全世界の人々がその誕生をお祝いしています。
 昨日は、キャロリングを致しました。今年は初めて、チームを2つ編成して、最初と最後は一緒で、それ以外は各チームで賛美を致しました。時間的な遅れを考えてのチーム編成だったと思います。相手チームの賛美が祝福されるように、祈りながらの賛美の奉仕となりました。
 映画でも、ドラマでも、やはり主役が肝心です。誰が主役をするのかで、評判が違います。ですから、主役に抜擢されたならば、それは光栄ですし、演技のために努力し、時間と力を惜しみなく使います。主役はやはり、他の配役よりもセリフは多くなります。ですから、そのセリフを覚えるために、努力するわけです。ドラマや映画の現場にも台本を持ち込んで、リハーサルや撮影寸前まで台本を読む人、完璧に暗記してくる人と主役を演じる人々はそれぞれです。主役になるということは、簡単なことではありません。
 現代では、主役の人が視聴率を取れないと、ダメだと言われます。NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」は先週、最終回でしたが、視聴率はあまりよくありませんでした。歴代最低の視聴率であったようで、主役の井上真央さんの評価はよくありませんでした。一方10月から始まった朝のテレビ小説「朝が来た」は、最近では視聴率25パーセントを超えて、日本のどの番組よりも一番です。「びっくりポン」ですね。来年の2016年の1月1日、元旦初詣礼拝の説教題は、「びっくりぽんの一年」です。どうぞ、乞うご期待下さり、ぜひお越しください。
 今日は、ルカによる福音書2章1節から7節を通して、「セリフはないけど主役です」という題でお話ししたいと思います。
 
 U本論部
 一、苦しみの中にイエス様は共におられる
 ルカによる福音書を書きましたルカは医者でありましたが、歴史家でもあったようです。ですから、1節と2節にあるように当時の皇帝の名前やその勅令、住民登録の記事を記しています。皇帝アウグストゥスは、ローマ帝国の初代の皇帝でした。ですから、ローマ帝国の基礎を築いたとも言われているようです。聖書にある住民登録とは、ローマの支配する所に、どれだけの人間がいるのか。そして、どれだけの税金を集めることができるのか。どれだけの人数を兵隊として徴集することができるのか、ということを調査するためであったようです。皇帝であるアウグストゥスが、自分が皇帝としてどれだけの力と権威を持っているのか、ということを誇示するためのものであったのです。
 この世の権威を持ち、国を支配するような力の王ともう一人の王、家畜小屋、洞窟で、世界の片隅で誕生し、飼い葉桶に寝かされた最も弱い、小さな存在、その王が生まれた時、ローマ皇帝アウグストゥスがユダヤの国を支配していたのです。
 そして、ヨセフとマリアはその権力者の命令で住民登録を強制されたのです。自分たちの住むナザレからベツレヘムまで、120キロから150キロもあると言われる場所へ旅をしたのです。4日間の長い旅でした。ただ、ローマ皇帝アウグストゥスが自分の力を権威を調べ、その力と権威をみせびらかし、彼の自己満足のために、ヨセフとマリアは、強制的に旅をさせられたのです。ヨセフやマリアの意志や願いではなく、いやいやながらの、できたら御免こうむりたい旅であったのです。そのような時に、イエス様は、ベツレヘムで誕生されたのです。アウグストゥスの力や権威に対抗するお方として誕生したのではありませんでした。数の力やお金の力、権力の力には到底及ばない無力な姿でイエス様はお生まれになったのです。
 私たちも、日本に住んで、政府や上に立つ人々の決めたことに従わなければなりません。いいことばかりではありませんね。困難なことや理不尽なこともあるでしょう。従いたくない事柄もあるでしょう。強制的な内容もあることでしょう。でも、従うのです。
 私たちの苦しみや悲しみ、切なさや絶望、そのことを神様は知っておられます。その人間の世界に、救い主としてイエス様は誕生されたのです。あなたのためにイエス様は、クリスマスに誕生されたのです。
 
 二、私たちのためにイエス様は貧しくなられた
 マリアは天使の語った通りに男の子を産みました。皆さんと共に7節を読みましょう。
「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」とあります。イエス様が生まれた場所は洞窟であったと言われます。岩を掘った場所、そこは家畜を住まわせる空間であったようで家畜小屋と言えます。それともう一つ、洞窟は墓としても使用されていたようで、そこにあった布にくるんだのです。その布とは死体を包む布であったわけです。そのように、家畜や死体というように、最も汚く、臭くて、人間のいる場所ではない場所で世界の救い主、イエス様は誕生されたのです。
 ヨハネによる福音書1章には、全ての人を照らすまことの光としてイエス様は、この世に来られたのに、この世、この世に住む人々はイエス様を知らずにいた。受け入れなかったことが記されています。
 ローマ皇帝アウグストゥスが、この世の権力や力で何とかしようとするのならば、神であるお方、神の子の誕生ですから、そのような人間とは比べ物にはならないような形で生まれることもできたはずでした。しかし、神様のご計画は、力ではなかったのです。私たちに弱さや欠点があるように、弱さの極みをイエス様は経験されたのです。
 イエス様は、誕生された時ご自分の生まれる場所、居場所がありませんでした。そして、大人になって神の国を語られた公生涯に入られた時、このように言われました。「狐には穴があり、空のとりには巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(ルカ9:58) 
 リビングバイブルには、「これだけは、よく覚えておきなさい。私には寝る所さえないのだよ。きつねにも穴があり、鳥にも巣があるというのに、天から来たメシアのわたしには、この地上には住む家もないのだ。」とあります。イエス様は、このように住む所もなく、さまよえる人としての生活をなさったのです。
 また、イエス様が最後の息を引き取られたのは、人生の最後は、二人の強盗の間、十字架の上であったのです。イエス様は、生まれてから死ぬまで、イエス様の場所はなかったのです。それは、私たちのためであったのです。

 三、本当のクリスマスの姿
 クリスマスと言えば、クリスマスページェント、降誕劇です。子どもクリスマスでは、幼稚科の子どもたちが演じてくれます。私も教会学校育ちですから、ヨセフ役をしたり、宿屋の主人の役をしたことがあります。
 イエス様の誕生は、野宿していた羊飼いに天使が現れて、救い主の誕生を知らせ羊飼いたちは救い主を拝みに行きます。羊の役はかわいくて、メーというセリフがまたかわいいです。東方の占星術の学者たちは、星の異常な輝きにユダヤの古い文献に救い主が生まれたことを知り、長い旅を星に導かれてやってきてヘロデ王に、「救い主はどこに生まれたのか」と聞き、聖書学者たちが、旧約聖書にベツレヘムに生まれるとの箇所を示し、学者たちは星に導かれて救い主の所に来ます。そして、黄金、乳香、没薬をささげ、偉い学者たちが、赤ちゃんイエス様を礼拝したのでした。
 もう一つの見どころは、身重のマリアを連れて、ヨセフがナザレからベツレヘムに旅をして、身重のマリアとの旅ですから、誰よりも遅く着いたので、どこの宿屋も満員です。どこの宿屋に聞いても、満室。今、東京のホテルは、予約しないで行くとほとんど泊まれない状態のようです。外国の旅行客の方々が多く来日され、高級なホテルだけではなく、ビジネスホテルにも多く泊まるので、予約さえも困難なようです。
 ヨセフとマリアは、住民登録のためにベツレヘムに集まる多くの人々のゆえに、泊まれないのです。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と聖書が記している通りです。
 ヨセフは、これで最後とある宿屋に行き、部屋があるかどうか尋ねます。宿屋の主人は、満室で泊まる所がないと答えます。ヨセフは妻のマリアは身重であり、いつ生まれるのかわからないので、何とか部屋をと願いますが、どう考えても無理で、宿屋の主人は申し訳なさそうに、部屋がないことを告げます。けれども、家畜がいる洞窟、家畜の部屋はあることを告げ、外よりもまだましということでしょうか、その洞窟で休むことにして、その晩陣痛が起こって男の子が生まれるのです。
 神の子、救い主の誕生にしては、何もかも揃っていない。何も準備のない。ただ、神様の臨在とみ心のみがそこには存在したのです。そして、羊飼いたちの訪問、当方の占星術の学者たちの訪問があったのです。
 クリスマスの劇は、ヨセフ、マリア、天使、羊飼い、羊、占星術の学者、宿屋の主人、家畜とありますが、主役はイエス様です。幼稚科の降誕劇では、確か人形だったと思います。ヨセフやマリア、天使、羊飼い、羊、占星術の学者、宿屋の主人にはセリフがあります。けれども、主役であるのにもかかわらず、イエス様にはセリフがりません。泣くという泣き声がセリフになるのかも知れませんが、その存在そのものが、そこにいるだけで主役としての意味があるのです。
 全世界の救い主、神様の人間に対する愛の現れがイエス様の誕生であり、この誕生されたイエス様が、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さったことによる、私たちの全ての罪が赦され、魂が救われ、イエス様が死んでよみがえることにより、私たちに永遠の命、天国の恵みが与えられたのです。

 V結論部
 私たちは、クリスマス礼拝を迎え、イエス様のご降誕を共にお祝いできますことを感謝いたします。今年のクリスマス礼拝において、洗礼者がおられないのはとても残念です。けれども、来週、今年最後の礼拝、年末感謝礼拝において洗礼式を行います。中西弘子さんです。本当は、今日のクリスマス礼拝で洗礼を受けるとよかったのですが、以前からコーラスをしておられて、クリスチャンのお友達がおられて、洗礼式にぜひ参加したいということでした。けれども、クリスマス礼拝は、やはりクリスチャンにとっては、自分の通う教会の礼拝を守りたいと願うものです。ですから、今日ではなく来週ならば、来ることができるので、では、今年最後の礼拝、年末感謝礼拝で洗礼式をしましょうということになったのです。来週の洗礼式のためにお祈り下さい。
 私たちは、セリフはないですけれども、クリスマスの主役であるイエス様を心に迎えて、私のために、一人ひとりのためにお生まれ下さったイエス様に感謝をささげ、この週を送るとともに、今週持たれますクリスマスを集会を通して、多くの方々と共にクリスマスをお祝いしたいと思います。
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